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2012年11月

2012年11月30日 (金)

正解

11月25日のブログ「分類」の続きです。

ボクは自分を「同性愛者」のくくりに入れたけど、なぜ、ここまで「異性愛者」を受け入れようとするのか。それは、「同性愛者」は「異性愛者」のもとにしか生まれてこないからです。「同性愛者」のカップルのもとには子供は誕生しないんです。単にマジョリティかマイノリティかという問題でなく、セクシュアルマイノリティにはここの問いがあります。基本的に「異性愛者」を受け入れていかなければ、自分の存在すらもなくなってしまうということになってしまうと感じています。まあ、いずれ、医学の進歩で同性愛者間にも子供ができる時代が来るかもしれませんがね。「同性愛者」の括りの中でしか生きていけないと、ここは無視していかなければ苦しくなります。無視して楽に生きられる方はそのままどうぞ楽に生きてください、とか思ったりします。

よく、「同性愛者」になった原因をかんがえても意味がないと、言う人たちがいます、そのエネルギーをこれから「同性愛者」としてどうやって幸せに生きていくことを考えたほうがポジティヴで近道だという意味ですかね。ボクは、「同性愛者」として生まれたことを誇りに思っています。同性愛者でなければ、同性愛者としてしかわからないことがあって、それを体験しなければ、今のボクはないからです。その体験がしたかったから「同性愛者」に生まれたかったことにしています。

この話題、もう、うんざりしてきましたか(笑)。うんざりしてきた人は、知ろうとしていないんだろうなぁ、と思います。でも、知る必要がない人はそれでいいですよね。身内や友人にそういう類の人がいない人たちは別にそれで正解だから必要ないですね。でも20人から25人にひとりの確率で「同性愛者」は生まれてきますよ。その家族に生まれないと確信してきた人が、子供が不幸にも(「不幸にも」とは表現したくないですが)そういう人だった場合、見てこなかったでは済まされません。その確率で自分には生まれてこないと信じる人は気にしないでください。それも正解です。かといってボクも不正解ではないです。「正解」「不正解」は関係ない、それもよく理解します。正解も不正解もないとうのも素晴らしいですが、どの選択をしても「みんな、間違っていない」「その人にとっては正解」、この感じかたがボクは好きです。「正解も不正解もなく、ニュートラル」という捉え方は好きですが、ボクは「誰も間違っていない、その人にとってはみんな正解」の方が今は好きです。「ニュートラル」より「正解」の方が肯定感が増すからです。

最近、無理にカテゴライズ化しない方がいい、ということにもすごく納得していますが、ボクはとりあえず自分を何かの括りに嵌めておいた方が生きやすいとは感じていて、それをたぶんこの前ブログにしたんだと思います。自分をカテゴライズ化して苦しくなるのはやめた方がいいというのには賛成です。でもね、ジャンルをとりあえず決めておいて、その中からやり方がよくわからない人はモデルを見つけることが出来たりします。楽な生き方の参考に出来るメリットがあります。その人の生き方がしっくりこなければ、別の人にすればいい、カテゴライズ化したカテゴリーが違っていたら、カテゴライズ化し直せばいいと感じてます。だから、ボクは少し違和感を残したままで、もう一度「同性愛者」のジャンルに自分を入れたんですね。自分のアイデンティティやそのアイデンティティに随った生き方が確立されたら、自分の生きやすい生き方を貫けばいいと思っています。

「俺って本当に同性愛者か?」と自分の中に問いが出てきたことには本当にブッたまげました。これは自分の中の核心を突いた自らの問いだったように思います。かといって、すごい不安が出てきたとか、芯が揺らぎ始めたということではないです。もしかしたらより芯を強固なものにする問いだったように思うし、そこに見つけたとりあえずの答えのようなものだった気がします。

カテゴライズ化と同じ意味で、最近、よく「~なことにする」という言い方をします。「明確な解答がないから決めないでおく」というのも正解だけど、「明確なカテゴライズじゃないけど、とりあえず同性愛者という括りに自分を入れておく」という感じでしょうか。これは非常に楽に生きられる方法のひとつだと思ってます。そのジャンルの人たちといると、居場所であることを感じたり、居心地がよかったり、共感ができたり、話が早かったり、とても参考になる別の生き方を聞けたりします。でも決め付けすぎないことも必要かもしれませんね。選択しなおす余地を残しておくというか。

でも、いつか、その「~としておく」ことが、より自分の生き方にしっくりするものだったかどうか見つめる日がボクには来ます。そのときに、より確信に近い別の違うカテゴリーがあれば、そこに入れ直すし、しっくりきていれば、それを信じ続ける、そんな作業をいつもしています。それが過去と向き合うことだったり、失敗を繰り返さない、いちばん核に近くて手っ取り早い方法だと思っています。たとえ、途轍もない時間がかかったとしても、それが結果的にいちばん理想に近づくことになると思ったりしています。

核心に迫ったり、無意識レベルまで掘り下げるときには、一旦この「~であることにしておく」というのは外さないといけませんが。そんなことを感じたりした今日この頃でした。

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2012年11月29日 (木)

一歩

この前の日曜日、秘密の飲み会がありました。仲のよいコーチング仲間から誘われた飲み会です。

それは非常に楽しいものでした。やっぱり、同じようなステージにいる人たちと過ごす時間は有意義です。そこに誘われたこともとても嬉しいことだと思います。

そのメンバーの中に、いつも「セクシュアリティ勉強会」にほぼ皆勤賞で参加してくれているコーチング仲間がいます。彼は、いたって普通の分類に入る方ですが、ボクという人間と出会ったことで、マイノリティについて、またセクシュアリティについて考えさせられることに巻き込まれた方です。いつも真剣に参加してくれています。彼は、教師をしています。

その飲み会のときに、一緒に話す機会があって、彼から、「豆腐さん、この前性教育の授業で生徒たちに多様な性があって、男は女を好きになる、女は男を好きになる、というようなことじゃない人もいるんだよ、と話してみました」と言われました。生徒たちからは「オカマかぁ~」みたいな声が上がったといいます。もちろん決められた指導要領の中にセクシュアルマイノリティのことはありません。これは、彼の判断で盛り込んだ内容になります。その授業でずっと豆腐さんが後ろにちらついていたと言います。そして、「性同一性障害までの話は出来たけれど、同性愛までは踏み込めなかった」と言って、まだまだこれが限界、というような印象を持ったようでした。もし4~5%の割合で同性愛者がいるのだとしたら、この中にもいるかもしれない、ということが彼の行動を煽りました。

ボクはそれを聞いて、同性愛まで踏み込めなかったことはどうでもいい、セクシュアリティ勉強会に来てくれて学んだことを行動にしてくれた、すばらしい一歩だと感じました。勉強会を始めてよかったな、と涙が出てきました。ほんの一歩かも知れません。社会が変わるなんて遠い先のことです。こんな程度のことで感動している場合じゃないかもしれません。でも、すごいことじゃないですか? たぶん、彼はものすごく意を決して勇気を振り絞ったんだと想像がつきます。

名前出さないから、この感動をブログに書いてもいいか、訊ねたら快く承諾をいただきました。っていっても、コーチング仲間で教師していて勉強会に参加していると書いたら、誰だかわかっちゃう人たくさんいますけどね(笑)。それでもいいと言ってくれたので。

そして、こうなっていくことはボクにとって望ましいことだけど、その発言で彼自身が変な目で見られてしまうかもしれないことには、少し不安を感じます。昔、ボクと一緒にいるだけで、ゲイ疑惑を持たれたことがあった人がいたんで、なんか、そこは申し訳なさを感じます。まあ、そんなことは彼ら自身想定済みでいてくれてると思いますが。そういうことまで考慮しなければいけない社会はまだまだ面倒くさいと思います。ボクは丁寧にやり続けますけど。

オバマ大統領が当選の後、同性愛の偏見差別問題について触れたようです。それを喜んだ当事者の仲間がいます。一義的にはそう捉えるのが自然でしょう。でも、ボクは、そんな発言すら出ないくらい偏見のない社会が理想です。同性愛者が弱者として捉えられているわけですからね。そういう発言が出ないということは、まったく差別されていないか、問題がなくなっているかのどちらかです。もし、オバマ大統領じゃない誰かが大統領になり、そこに触れない発言しかしなかったとして、嘆く必要はないと、ボクは思っていますが、今はまだ多くの仲間が問題として感じていると言う現実なんだと思います。

まあ、なんにせよ、ボクは一歩に貢献できたことを激しく喜んだ次第です。活動の大切さを知りました。そして、さらにやる気が出てきました。自分の使命を感じました。もうしばらく、ボクはボクのやり方で、発信したり行動したりして行こうと思います。

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2012年11月27日 (火)

傲慢

おととい、累積アクセス数が60000を超えました。みなさん、ご愛読ありがとうございます。

今週いろいろ予定が埋まっていて大変だから、昨夜は早く寝ようと思っていたのに、ほぼ一睡もできませんでした。今日の仕事は所得調査で車を運転することだったので、非常にまずかったわけですが、なんとか、やり過ごせました。ゆうべ、眠れなかったせいでこうなったんですが、ゆうべ眠れなかったおかげで、たくさんのことを発見しました。

今から、これを書き終えたら、Facebook に毒を吐こうと思っているんですが(笑)、それがどんなことかというと…、

みんな、自己啓発とか称して、「自分を許す」とか、「己に勝つ」とか言ってんじゃねぇっ!

「許す」とか、チョー傲慢なんだよ、「己に勝つ」とか、過去の自分を「負かす」ことになるんだよ、そんなことを、わかって言ってんのかっ!

過去の自分を汚点にして、打ち負かしておいて、成長なんか有り得ねぇぜっ!

ということで(笑)。

とはいえ、ボクは「自分を許す」ことから始めました。「自分を赦す」方が、ニュアンスが近いかもしれません。それから「人を赦す」ことをしました。そして、「赦す」ことを「認める」ことにして、「認める」を「受け入れる」ことにして、さらに「寄り添う」ことにしました。自分を「許す」とか人を「許す」とか、「なんて傲慢だ」って思います。自分も人も裁く権利などないのです。ところが、「自分を許す」ことすらできない人たちが、ボクの知っている人ほぼ総てです。大概、苦しんでいる自分を楽にする作業は「許す」ことから始めるし、ボク自身、セッションでこのことから取り組みます。多くの人が、苦しみの根源は親か親に代わる人との関係性にあることが多いと思います。まず、ボクは、セッションをするとき、クライアントさんの考え方や過去の体験や経験から、自分を許し、親を許すことからアンテナを張ります。「許す」ことすらできない人が「受け入れる」とか「寄り添う」とか、ましてや「癒す」なんてできないと思ってます。でも、この最初の「自分を許す」ことが途轍もなく難しいんですよね。

「許す」ってとても傲慢な感じがします。まあ、傲慢でもいいんですけどね、傲慢であることが認識できていれば。そして、「受け入れる」や「寄り添う」だって、なんだか、「受け入れてやった」「寄り添ってやった」というような多少傲慢な裏のニュアンスを感じませんか。で、結局ボクは「気づく」という言い方をするようになりました。でも、「気づく」だって、なんか「どうだっ! オレはこんなことに気づけたんだぜっ!」みたいな自信満々な響きを感じませんか。何度も言います。傲慢だろうが、自信満々だろうが、それを認識していれば、別に構わないと思います。ただ、認識も出来ていないで偉そうなことを言っている人に毒づきたくなるボクがいるんです。毒づきたくなる時点でダメかもしれませんがね(笑)。

本当は今はしっくりする言葉が見つからず、「知った」「発見した」とか、言い換えてみたりしますが、なんかちょっと違います。で、結局気づいた時点で、「今までそうだった」という過去形の表現だけするのがいちばん近い気がするんですが、それだと、みんな、「大丈夫?」「何か辛いことでもあったの?」と心配してくれます。心配かけておいて申し訳ないと思うし、みんな優しいんだな、と思いますが、苦しかった過去から解き放たれて、楽になっているのに、今でも苦しいんだと心配をしてくれます。いやいや、過去形なんだから文脈から読み取ってよ、というのも、不親切な気がして結局「気づいた」とか表現することになります。

まあ、それは、表現したいボクが勝手に悩むことなんで、そのうちしっくりする言葉が見つかったらそれに変えていきます(笑)。

この伝わらない感じは今日に始まったわけではなくて、ずいぶん前から「みんな、ボクって苦しそうに見える?」とか、よく訊いています。そんで「苦しそうに見える」と言われます。特にセクシュアルマイノリティは人に認めてもらえる環境があまりよくないと思うから、ボクは当事者として声を上げます。でも、結局のところは、セクシュアルマイノリティに限って言いたいことではないんですよね。大事なのは、ボクが過去苦しかったことではなくて、それをどう克服したかということ。実はこの「克服」もとってもニュアンスが違うんですけどね、今のボクにはこの表現しか見つけられないからそう言います。まあ、とにかく楽に生きましょうよ、ということを言いたいです。出来ている人はどのままどうぞ。ボクにはほとんどの人がうまくいってないように感じるから言っているだけです。そうして、孤独に苦しむ人を少しでも減らしたいから言いたいだけ。まあ、それも傲慢な態度と言えば傲慢な態度ですけど。

まあ、自分を苦しめている人には、それをやめてみませんか、楽ですよ、と。知ったかぶりしてる人には(ボク?(笑))、結構傷つけてますよ、と。人を知らず知らず傷つけている人には(ボク?(笑))、それ自分に帰ってきますよ、と。もっとみんな楽に共存しましょうよと、せっかく気づいたんだから言いたいんですね。

「許す」→「赦す」→「認める(許可を出す)」→「受け入れる(受け止める)」→「寄り添う」→「気づく」が瞬時にできるとほんとに楽だと思います。それぞれの言葉の解釈や受け止め方が人それぞれだから簡単に説明はできないんですけどね。すべての出来事や人に「オッケーを出す」でもなんでもいいんですけどね、本当のその意味を知っている人はボクから見ればほとんどいません。ボクも出来ているかどうかわからないですけどね。ただ、ちょっと寝不足だけど、めっちゃすっきりして、めっちゃ楽になってますよ。

なんだか苦しい感じの人、なんだか違和感感じる人、いっしょに考えますよ、その苦しみや違和感はどこから来るのか、どうやって解放するのか。気づくのはその人本人ですけどね。その努力を厭わない人には心からお手伝いをさせていただきたいと最近は思っています。ちょっと、ボクは厳しいですけどね。その厳しさを乗り越えてでも、人生をよりよくけていきたいと思っている人には力を惜しみません。そういう方は、来年4月から有料になる前に、ぜひ、ボクにアクセスくださいね。

ゆうべ、気づいたのは、こんなことではなくて、たくさんあるんですが、書きたいことが山ほど出てきたので、ひとつづつ書いていきます。でも、忙しいから、更新は滞るかなぁ。ということで、気長に更新をお待ちください。

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2012年11月25日 (日)

分類

昨日は、朝10時半から研修、そのあと、あるカウンセラーさんから今後のボクのフリーになることについてのアドバイスを聞き、夜はセッションと、10時間くらい頭をフル回転させました。ちょっと疲れたけど、結構貴重な1日になりました。もしかすると、フリーになるとこんな毎日がやってくるのかもしれませんね。

3日前、ちょっと度肝を抜く感じのブログを書きました。驚くほど、面白い反応をいただいたのでびっくりしているところです。いわゆる「普通」の方たたちから、「私もマイノリティなのかもしれない」という感じの感想をたくさんいただきました。まあ、そんな脅かすようなところはボクの意図するところではなかったので、意外な感じはしましたが、書いてよかったと思いました。

ちょうどそんな折り、最近このブログによく登場する彩光さんがブログに興味深い記事を書いておられたので、ちょっと引用しちゃいます。一応、ご本人の了承は得ましたので。タイトル「自分主語で考えなきゃね!」です。

以前、とあることで迷路にはまってた友人に言ったことがある。「○○系な自分だから**だ…という、まずカテゴリありきの発想から止めろ」と。常に自分を主語で考えろ、と、その人に言った。

その時迷い込んでたのは、少々込み入っていて、非常にコアで、その人のアイデンティティそのものに関わるようなことだった。なのに、その人は、あくまでも「分類」から、自分を見ようという視点から離れられないでいた。たとえば…自分はB型だからマイペースなんだ…と。そういう発想のことだ。もちろん、そんな単純なことではないけども、まあ、そういうこと。

ジャンルやカテゴリから自分を見ている限り、自分の根本的な方向など、わかるはずがない。けれど、どうそれを伝えても、意味がわからなかったようだった。

その人が特別理解力がない…ということでは、決して、ない。ほとんどの人が、そういう視点に固定してることすら、気づいてないんだと思う。というか、そういう見方以外知らないし考えたこともない…というところ。

統計学的な「平均」や「偏差」というものが、物事を整理し知る手がかりとして重要だということは、わかる。けれど、そこから自分を見る、というのは、そもそも自分ってものがそれなりに把握できていてこそ意味があることであって、アイデンティティに関わるようなことに関わっている時に、そんな「一般化」から見てたって、自分がわかるわけがない。

一般化された分類、類型。その中の「どこに自分が当てはまるのか」という発想しかないと、自分っていうものの何らかの要素を必ず犠牲にするしかなくなる。

自分はこういう者だ。だから、自分はこういうジャンルに入るのだ。という順番で、まず、見直してみろ…と、何度か伝えたけど。

仮に、今知る限りの中で、当てはまる枠がなさそうなら、どこにも入れないまま保留にしておけ。でないと、無理矢理どこかに当てはめて、結局はまた、自分がわからなくなる。保留が気持ち悪いなら、自分で「自分ジャンル」を作ってしまえ。

…とも、常に一緒に、話していたけど。結局、その後、その人がそれについて答えを見出したのかどうか、私は知らないまま、交流がなくなった。

どこかのタイプやらカテゴリやら…そういうものの中にどうしても収まろうとする意味が、よくわからない。当てはまらないなら、当てはまらないでいいじゃん。

不思議でならんのだけど。そういう、どうしてもどこかに自分を押し込みたい人ほど、その中での順位にこだわるんだよね。私の狭い世間知の中では、そういうことが多かったよ。

自分ジャンル作っちゃえば、そこでは常に「自分一位」なのに。なんで、わざわざ、競争率高い大勢ひしめいているジャンルに自分を曲げてまで無理に入って、その中で「上に行けない」とか、嘆く必要があるのか。そういうことを、わざわざやっておいて、「どうせ自分は劣ってるから」とか卑下までして。バカバカしくね? 私が無神経なだけ?

少なくとも、自分は何者か…というアイデンティティに関することで「分類から自分を判断する」なんて、何の意味もないと思うよ。

彩光さんのブログはもっと読み易いんだけど、スクロールの都合上、改行をボクのブログ用に変えてしまいました。

まあ、ボクはこの作業をやったのかな、って思っている感じです。「同性愛者」だから「オトコのカラダに反応する」ことになる決め付けの上で「同性愛者」だというカテゴリーに入れたけど、その工程に疑問が出てきたので、何を以って「同性愛者」というのか、自分はどこに違和感があってカテゴライズ化をしたいのか、を考えてみ直したんだと思いました。彩光さんのいう分類の当て嵌め方とアイデンティティの解釈がボクのに一致しているかどうかは定かではないです。正しいことをやっていると認めてほしいわけでもないし、彩光さんに媚っているわけでもないですが、まあ、いかにもタイミングよく飛び込んできたもんだからこんなことを書いています。

前に彩光さんが、「少数派な要素が重なるとややこしくなる」というようなことも書いておられました。そこにもつながるんだけど、結局いろいろ面倒くさいので、とりあえず何らかのカテゴリーに自分を入れておくと、説明もしやすいし、多少面倒くさい説明が自分にも人にも少なくなっていくので、生きやすいようにボクはカテゴライズ化しているのだと思います。「同性愛者」がなんたるかは今でも疑問なんですが、世間の「同性愛者」の認識にボクの中身がいちばん説明としてわかりやすいから、まあ、「同性愛者」にしているわけですね。「ボクは同性愛者だ」ととりあえず宣言しておけば、いろいろ面倒が減るんです。

そう言ってもまだ「えっ、豆腐さんって性同一性障害なの?」とよく訊かれます。結構いろいろよく学んでいる人ですら、です。で、それが単なる興味本位かどうかどうかによって、「まあ、そんなもんです」とか、「似たようなもんです」とか、「そう思ってもらってもいいです」とか、面倒くさいと言っちゃいます。訊いてくる方がボクをよく知りたいと思っているように感じれば、「同性愛者」と「性同一性障害」の違いについて懇切丁寧に説明したり解説したりします。まあ、感じ方の発端は興味本位でも何でもいいんですが、からかわれているのであれば、ボクには面倒くささが増幅されていくわけですね。

あらゆる面でカテゴライズ化しておいて、自分でもその括りに入れておいて、受け入れていくと咀嚼しやすくなるし、肯定していれば自己肯定感が増し、生きやすいからそうしているわけです。

たとえば、楽しいはずの飲み会で、AKBの誰がいいか、というような話題になるたびに、昔は仲間はずれにされたくないし、楽しみたいから、いちいち女性を自分のタイプの男性に置き換え、またそれに合ったAKBの誰かや芸能人の女性の誰かに置き換え直して、話をごまかしたりしていたわけです。昔はそうしてでも仲間はずれにされたくなかったり、普通を演じようとしていたわけです。それをカミングアウトしておくと、ボクには面倒くさい回答をみんな求めなくなるし、いちいちそういう場面で自分も嘘をついているような罪悪感を持たなくなるんですね。でも、多くのセクシュアルマイノリティは自己開示をしにくい状態に今の社会ではなっているから、昔のボクのようなことをやっている人が多いんでしょうね。

結局はボクが「同性愛者」であることを恥じていなくて、カミングアウトのリスクも知っていて、でも、面倒くささは解消したいと思うと、こんな感じになってしまうんだと思います。そういう男女間の話題にも平気で、むしろ自分の恋愛観も話せて、男女とか関係なく分かり合える関係性を友だちに求めると、いろんなこういうことが出てくるわけです。面倒くさいことを避けるか、乗り越えてどんな場面でも平気になるかは、個々の自由で何も言うつもりはないです。飲み会の楽しい場で「その話題は厭です」という自己開示をしてもいいし、我慢してもいいし、そんな話題しか出ない飲み会に参加しなくてもいいし、友だちとそういう話題はしないと決めても何でもいいんです。

ボクが何を感じているかというと、マイノリティとしての自分のカテゴライズ化は、ボクの場合は必要だったということと、それを知っておいて、人(マジョリティ)との感覚の違いも知っておいて、全部何でもアリで正解も普通もないことを自分の中のどっかできちんと認識しておけば、マイノリティだって社会に溶け込むことはぜんぜん苦しくないし、愉しい、ってことですかね。

まあ、あまり、順番間違えなくいい風にカテゴライズ化したり、分類をするとそれはいい場合もあるし、かえって自分を苦しめることもあるってことですよね。そんで、そのカテゴライズ化に、人を巻き込んじゃああまりよろしくないですよね。ってことで。今日も変なブログになりました。

おしまい。

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2012年11月24日 (土)

「第7回 セクシュアリティ勉強会」チラシ完成

今日は、「第7回 セクシュアリティ勉強会」のチラシが完成したので、アップします。

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勉強会を告知した11月10日のブログ記事にも画像挿入したので、よかったら、ご覧下さい。

「第7回セクシュアリティ勉強会」のお知らせ

で、今回はいつも勉強会のあとで開催している懇親会を忘年会にしようと思っています。勉強会に参加されない方も、ボクに関わってくれている方、すべて参加オッケーです。みんなで2012年を振り返りませんか? 勉強会のあとだということだけご理解ください。場所は大曽根あたりで人数を把握し次第予約しようと思っています。たくさんのお申し込みお待ちしております。

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2012年11月22日 (木)

疑問

今日は(も?)長くなりますよ、覚悟して読んでね。でも、今日のはぜひみんなに読んでほしいな。

母の状態があまり良くなく、ほぼもう立てなくなったので、車でいろいろ今までの医療機関にかかることがことが難しくなりました。そこで、施設を管轄する病院にかかりつけを変えることになりました。とはいえ、結構先端医療で治療している分もあり、変えられないところもあるのだけれど、とりあえずの普通の状態の主治医は変えることになったわけですね。それで、今までの主治医から紹介状をもらう必要があり、今日はそのことで少し動いていて、仕事場から急いで帰ってきました。

そのせいもあると思うんだけど、帰る道すがら、ふと、どっからか頭の中に言葉が降ってきました。

「あれ? 俺ってホントに同性愛者なのか?」

自分で、ブッたまげました(笑)。本題の前に…。「俺」って何十年ぶりかに出てきた言葉です。ボクはボクのことを「ボク」と言います。これはなんとなく「僕」ではなくて「ボク」なんだけど、まあ、単にこれがしっくりくるからカタカナで書いてます。言葉にして話すときもカタカナのイメージで「ボク」です。いちど、思春期に、みんなが自分のことを「俺」と言うので、頑張ってボクも自分のことを「俺」と言っていたときがありました。う~ん、厳密にいうと「俺」ではなく「オレ」かな。でも、それってなんだか、自分らしくない。で、それに気づいて以来ずっと「ボク」で通しています。たまに「おいら」と言うときもありますが。たぶん、その思春期の時は男らしく話したいと思ったりしたんでしょうね、無理して使っていました。そのころから、男らしさとは粗野な感じとは違うとか思っていました。だから、「ボク」でも、ボクにとっては男らしいわけです。ただ、今日どっかから降ってきたこの言葉は「俺」だったので、そのまま「俺」と書いてみました。なんだか、照れくさいですね。まあ、そんなことはどうでもいいです。

問題は「同性愛者」の部分で。ちょっと、表現がお下劣になるかもしれませんが、今日は赦してください。

ボクが自分を同性愛者のカテゴリーに正式に入れたのは34歳の時です。ずっと苦しんでいたわけですが、最初にそのことを意識し始めたのは小学校5年生の時です。同級生のオトコの子の裸にどきどきして、アソコが勃ってしまったから、自分は「異常じゃないんだろうか」「病気じゃないんだろうか」とごく普通に悩んでみたわけです。まあ約25年間、自分のこのいびつな性を受け入れられずにいたわけですが、そこを受け入れてしまったのが34歳の時だったわけですね。でもさぁ、よくよく考えてみると、男のカラダに興奮するから即「同性愛者」でしょうか。

セクシュアルマイノリティのカテゴライズをしていくときに、主に3つを考えるとされています。セックスとジェンダーとセクシュアリティ。セックスは、身体学上の、若しくは生物学・解剖学上の性です。体の作りや染色体が男であるか女であるかということ。ジェンダーは、社会学上の、若しくは文化的役割の上での性です。「男らしい」とか「女らしい」とか、社会通念上決めつけられた習慣や風習や慣例に照らし合わせて、自分の性自認・アイデンティティが男であるか女であるかということ。そしてセクシュアリティは、性対象が男であるか女であるか、です。この「性対象」とは、主に「性的欲望」「性的行動」を指すと言われているのが現状だと思います。で、ボクは生物学上も解剖学上も男だし、自分でも男だと認識しています。それは、文化的にも社会的にも。ボクがマジョリティと圧倒的に違うのは、「性対象」の部分ですよね。これは、「性的欲望」「性的行動」というと、やっぱり、同性に向いています。だから、本来それを深く考える必要はないんですね。「同性愛者」ということで無理なく説明がつきます。

でもでも、この「性的欲望」や「性的行動」って、ホントに性交渉の場面だけをいうのでしょうか。これって、感情が伴ってませんか? 何が言いたいかというと、「性的欲望」「性的行動」は本能的に体が反応する部分だけを言うのではなく、恋愛対象と捉えるべきではないですか?と思ってしまったわけです。もし、生殖機能を失ってしまっている人はどう捉えたらいいんでしょう。それは異性に対して「どきどきする」とか、「むらむらする」とかですかね? ちょっとその辺がわからなくなってしまった感じです。ボクは確かに性的に女性にどきどきしたりむらむらしたりはしません。でも、その「性的に」ってなんでしょう? ボクは「人間的に」大好きになるのに男も女もありません。むしろ、親密になっていくのは女性の方が数だけで言えば多いかもしれないです。でも、今こうしてこれを書いていて思うのが「性的に」と「人間的に」の違いです。これって本当にきちんと線引きできるものでしょうか。たとえば、冗談で、「性交渉なしだったら結婚してもいい」と思えるくらい居心地のいい女性ってボクにもいますよ。「結婚」は「居心地」だけでは括れないかもしれませんが、法律上では女性と「婚姻」が可能な気がします。そんな簡単に気持ちの整理がつかないから、そこは自分の気持ちに正直に従って、対象を「女性」にすることをやめて「ゲイ」で生きていくと決めてみたわけです。実は今、この年になって、「性的に」どきどきわくわくむらむらってあまりないんですね。ボクにとって人間関係の構築に重要なのは、結局は人間的に尊敬できるかどうか。一緒にいて楽しいかどうか。だとしたら、それには男女ってあまり関係ない気がしてきたわけです。自分がそれを「恋」とか「愛」と定義するかどうかだけの問題なのかな、と思ったりしました。12年半前の心臓発作のとき、冗談で「かわいいオトコの子を見てどきどきしたと思ったら心臓発作でした」と笑い話にしてたけれど、どきどきやむらむらなんて勘違いだったりしません? ホントに心から苦しくなるくらいみんな恋愛してるの?

自分を「同性愛」とカテゴライズ化した時点では、単に「自分のカラダがオトコに反応する」ってことだけで「同性愛」と決めつけただけじゃないかと、今日思ったってことです。もしかして、ボクっていたって「普通」の人間なんじゃないの?って感じです。でもそれじゃあ、「豆腐さん」の魅力半減だよね。やっぱ、「マイノリティ」でなきゃ。そこを苦しく生きていて自己開示していかなきゃ、って感じしますよね。しないか(笑)。

「性欲」「本能」だけで、「性的欲望」「性的行動」と捉えてしまっていいんでしょうかね。

「性的欲望」って何? 「性的行動」って何? 「性欲」って何? 「本能」って何? 「恋愛」って何? 「結婚」って何? 「パートナー」って何? 「好き」ってどういう感情? 「愛する」って何すること? 「同性愛」って何よ?

本当はみんな何にもわかってないんじゃないの? 恋愛とか幸福とかなんて。それはもちろんボクを含めてだけどね。

もし、仮に、ですねぇ、今のような咀嚼したり内省したりする力みたいなものが小学校5年生の時からあって、なんかちょっと欲望する感じがほかの人と違う自分を受け入れられちゃっていて、なんかNLP的にネガティヴを逸らすことを自然にやれていたら、何とか「異性愛者」だったことにして、結婚して子供がいたりしたんじゃないかと思ったりするところがあります。そんな可能性低いありもしない「たられば」を感じる必要ないくらい、自分を今認められているので、そんな喩えは必要ないし、「同性愛者」として幸せに生きている自分が大好きですよ。まあ、人というのは、自分をどっかの括りに入れて生きていきやすい自分を選択していくわけですね。その作業の中で、自分が「同性愛者」であることにしておくと、生き苦しいように見えて、実は生きやすい方法を身につけているのだと思います。

ただね、それでもいろいろ思うことがあるわけですよ。また、言っておかないといけないかな。何か不幸な出来事があったり、誰かに何かを言われたからってわけじゃないですよ。心配しないでね。ただ、帰り道、ふっと降ってきた言葉に自分なりの説明を入れているわけです。これを面倒くさいと思う人はスルーしてね。

もし、「どうしようもないくらいそばにずっといたいと思う気持ち」のようなものだったら、ボクは女性にも持ちますよ。だから、ややこしいんです。突き詰めていくと面倒くさくなります。だったら、「同性愛者」なんて言わずに何でもアリにしやいいんじゃないかと思ったりすることがなくもないってことですかね。

ときどきボクは「男」と「女」にこだわっているのか、「異性愛」と「同性愛」に振り回されているのかわからなくなります。自分の違和感と感じている部分がどこにあるのかわからなくなったりします。ただね、でも、たぶん、ボクは人を好きになるとき、それがたとえ「人間的に」であったにしても、どこか、男性として、または女性として見ているから、きっと無意識で線引きをしているんだと思います。だから、おそらく、「同性愛者」であることにしておくのが、最終的にはいちばんしっくりくるんだと思います。

結局のところ、何が言いたかったんでしょうね(笑)、混乱してます。まあ、そんなありえない信じられない言葉が上の方から降ってきたので、書かずにはいられなかったということで(笑)。これを考えるのは今日限りにしようと思います。今のままで心の在り方に別に違和感はないのだから。面倒だし、「同性愛者」としてこれからも生きていきますのでよろしく(笑)。なんじゃ、そりゃ(大爆笑)。

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2012年11月21日 (水)

自由

先日、「退職」「起業」という言葉をなるべく使わずに「フリーになる」と言いかえてみることにする、と書きました。少し肩の力が抜けるような感じがするからです。プレッシャーをかけすぎているかなと思うという意味でも。

で、「フリー」という言葉を改めて考えてみました。直訳すると「自由」ですよね。公務員の縛りからとれて「自由」になる。好きなことを「自由」にやる。ブログでより「自由」に書く。組織から離れて「自由」になる。いろんな意味で、しっくりする気がしてきました。

いろんなフレームが取れて「解放」していくというのも「自由」になる気がします。カミングアウトして鎧を脱ぐ「自由」な感じ、ネガティヴから抜け出す「自由」な感じ、ずっとそれに取り組んできた気がします。今、そこに向かって羽ばたこうとしているのだとしたら、ものすごく素晴らしい決心をしたと思うし、「自由」になることで付きまとう「責任」を「覚悟」したようにも思います。「起業」「退職」「独立」という表現には少し「自由」な感じが狭まっていくイメージを持ちます。

昨日、よんどころない用事で、あるクライアントさんのセッションをドタキャンしてしまいました。すごく申し訳ないことをしたけれど、理解をしていただけました。その分、代わりの日にはより磨かれたセッションにしたいと思っています。そして今日は別のクライアントさんのセッションをしました。こうしてリピーターさんになってくれるクライアントさんの状態がよくなっていくのをお手伝いする感じがたまらなくうれしいし、とても「自由」にお仕事している感じがします。そして、クライアントさんがいろんな縛りから「自由」になってくれている感じがして、それもこの上ない喜びです。

今、あらゆる「自由」を堪能しながらこのブログを書いています。あと4箇月ちょっとしたら、さらに人生自体が「自由」になる気がしてものすごくワクワクします。

みんな、いろんなしがらみや枷を外して、「自由」になりませんか? ボクは一生懸命寄り添ってお手伝いしますよ。今、そういうことを心からしたいと思っています。そして、何より自分の人生をもっと輝かせたいと思います。「豆腐さんのようになりたい」とたくさんの人に思ってもらえるように自己表現もしていきたいと思います。

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2012年11月20日 (火)

メッセージ

セミコンの敗者復活戦を終えて、より、自分の目指すところ、役割が明確になりました。

まあ、褒め言葉ばかりでもなく、結構辛辣なものもなかったわけではないです。でも、それは、改善点として、エールとして受け止めます。

ボクはやっぱり、発信したり、伝えていったりが、いちばん役割として似合う気がします。セミコンでは伝わらなかったことがたくさんあります。10分という制限の中で、10分以上のことが伝えられたと思いますが、やはり伝え足りないです。何かを伝えられたときに、サイコーの気分になるようです。どうやら、ボクにしか伝えられないことがあるようです。もっと伝え方を磨かなければね。

いろいろ参加したり挑戦したりやり方を変えてみながら、権利を勝ち取る運動ではなく、伝えていく、これが役目のようにどうしても思えます。今回のセミコンでそれをさらに確信しました。それは、勉強会かもしれないし、講演かもしれないし、せっかく取り組んだんだからセミナーになるかもしれません。個人ひとりひとりに伝えていくセッションになるかもしれません。それは、まだまだよくわかっていないです。フリーになるまでに整えていきます。

マジョリティーにはマイノリティとしての立場で、全体には全体の1員としての公平な立場で、マイノリティ当事者にはマイノリティとしての望ましい生き方を目指して、そして自分自身にもより生きやすい人生を楽しく、それしかないんだよなぁ。

メッセンジャーでいたいと、強く思います。

セッションでできること、前に立って行った方がいいこと、セミナーで伝わること、勉強会で伝えられること、それぞれ効果的な方法があります。今は、たぶん、ブログでの伝え方がいちばんうまくできている気はします。

たとえば、カウンセリングの場面で、クライアントさんが気付けていないことで、苦しんでいる場合、そこにボクに気づけることがあれば、それは伝えたいと思って当然だと思います。救いたい、その気持ちがあるからこそ、寄り添えます。本人に気づいてもらわないといけないから傾聴しかできない、そんなセッションなら、ボクじゃなくてもいいわけです。救いたい気持ちがあるからこそ、寄り添って提案をしていくわけです。クライアントさんがたまたま行き詰っていて気づける状態になかったら、気づける提案をします。それも難しければ、直接伝えてもいいと思うんです。今後、自分で気づけるコツみたいなものを学んでくれればいいと思います。ボクはセッションで大変な宿題ばかりクライアントさんに与えているかもしれません。クライアントさんの可能性をちゃんと信じて、一緒に乗り越えていく、その何がいけないんでしょう。ただ聞いてあげるだけが必要な時ももちろんあります。ボクは自信を持って、確信をもって、救ってあげたい、助けてあげたい、その気持ちが前提にあって、セッションします。伝えてしまうことは、本人自力で気づけないから、カウンセリングじゃない、コーチングじゃないと言われることもあります。はたして、救ってあげたい、助けてあげたい気持ちなしに、本当にセッションができるんでしょうか。最初からクライアント本人が自力で気づけたら、セッションなんて必要でしょうか。

大多数の方々がマイノリティのことを知らないのなら、ボクは伝えられることを伝えていきます。それが、共存の道じゃないですか? セミナーで感動してくれた方がたくさんいます。きっとボクにしか伝えられない何かがあります。誰でも言えることだったり知っていることだったりするかもしれなくても、ボクだから伝わるもの、それがあるような気がしています。それが、たとえおごりだったとしても。

来年度以降のヴィジョンが見えていません。まあ、公務員辞めるまではちゃんと公務員するって決めたのがいちばん本意に近いので、それまでは息苦しくても後悔のないようにやっていきそうです。でも、本業のかせが外れたら、何が見えてくるのかがわかりません。動き方が変わってくる気がします。

そしてそれまでは、自分の役割をもっと強い軸にしたり、自分の力や才能みたいなものを信じ続けてみたり認め続けてみたり、それで、より明確に見えてくると思います。

今日は、自分のためだけに、自分に勇気与えるように自信をより持てるようにブログ書いてみました。タイトルは「メッセージ」だけど、ひとりごとだと思って読んでね。

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2012年11月19日 (月)

ごくいち!5

昨日は、ごくいち!5(ごく一部の人にだけ役立つ講座5)にスタッフとして参加してきました。

↓まあ、詳しくは「ごくいち!」のサイトを。

http://gokuichi.info/

そのうち、画像も感想も掲載されると思います。

400

画像がないので、こんなんで勘弁してね。

400_4

懇親会は途中で帰ってしまいましたが、その後の画像です。

「ごくいち!」は正式名称を「ごく一部の人だけに役に立つ講座」と言います。ボクは去年の7月の講師デビューをこの「ごくいち!」で飾りました。以後、「マイノリティのパイオニア」と名乗っています。そして、スタッフとして参加した今回5回目が、なんとセミコン名古屋敗者復活戦の翌日という何とも奇遇なスケジュールになりました。今回もあまりにくだらない…おっと!失礼、あまりにもマニアックな講座になりました。

そのうち、画像にもなると思うので楽しみにしていてください。

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2012年11月18日 (日)

セミコン名古屋地区敗者復活戦

17日、2012年のセミコン名古屋地区の敗者復活戦に参加しました。

今年の7月第13回セミナーコンテスト名古屋大会に挑戦して木端微塵に砕け散りました。その様子は「ボロクソ(笑)」「セミナーコンテスト名古屋大会」というタイトルで7月2日と7日にこのブログに書きました。すぐにその後、めげずに敗者復活戦に参戦すると表明しました。ずっと練習を続け、書き直しては練習し直し、まあ、昨日に結構賭けていたんです。

でも、そこには何としても敗者復活しようという強い戦いの意識はなく、もうボクの中から戦闘意欲は消えていました。胆嚢摘出手術・母の入院などを経て、いろいろ考え方が変わり、セミナーコンテストはボクにとって通過点になりました。でも、昨日まで、精一杯の通過点にしようとしました。いちどは目指したものだから。ライバルやほかの挑戦者との戦いというより、自分の克服の一部という感じになりました。ある意味、雪辱戦ではありましたが、そこまでの無鉄砲さはなく、気持ちはずいぶんほぐれていました。

また、なかなか順番は回ってこずに、また真っ白になりそうになりました。完璧とは言えないけれど、力を出し切った感じがします。まだまだかもしれませんが、ボクの甲子園のような暑い夏が終わった、という感じです。あとは、4人の名古屋メンバーに思いを託します。

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そして、懇親会ではいろんな方と交流させていただきました。特に、昨年挑戦された井口さやかさんとは、感動してくださったお話や今の家族のことなどをたくさん話させてもらいましたが、ブログにまるでボクが優勝したかのようなありがたい記事を書いてくださいました。ボクが話すより、客観的に様子が伝わると思うので、リンクさせてもらいます。

↓井口さやかさんのブログ「Gelsomino」の記事「セミナーコンテスト名古屋敗者復活大会にオブザーバー参加しました。」

http://ameblo.jp/gelsomino-bodyart/page-2.html#main

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「感動しました」「個性はいちばんでした」「豆腐さんにしかできないセミナーでした」など、素敵なメッセージを評価シートにいただきました。

スタッフのみなさん、応援してくれたみなさん、そして何より名古屋13期の仲間、本当にいい経験をさせてもらいました。

これからの活動の糧にします。

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タッキー☆ゆりちゃん結婚祝い

16日金曜日、タッキー☆とゆりちゃんの結婚祝いを個人的にさせていただきました。

実は、すでにみんなでお祝いをしたし、その時には手作りのお祝いケーキを作っていったので、自己主張もできたし、それでよかったんだけど、みんなと一緒くたでなく、個人的に伝えたいことがたくさんあったので、無理にお時間を作っていただきました。たまたま、コーチングスクエアの授業もお休みの日だったので、うまく時間が合ってよかったです。

このブログを、おととしの初めから見てくださっている方々には、よく出てくる名前なので、タッキー☆のことは、よくわかってもらっていると思いますが、当初は「大岳さん」とここには書いていました。まだ、ボクが鬱で臥せっていた時でしたね。藁をも縋る思いでブログかSNSかに足跡を残したところから始まりました。PCでの検索もやっとだった時期なので、タッキー☆が先に見つけてくれたのか、ボクが何とか探し当てたのかは定かではありません。

ボクの鬱の回復に、居酒屋のマスターが最大の影響をくれたのは間違いないけれど、このタッキー☆なくしては、今のボクはありません。その後出会ったコーチングスクエアもとても大事だし、元気になってからのいろいろな出合いやコミュニケーションがなければ、もちろん今のボクはないけれど、そのコーチングスクエアもタッキー☆と出会ってなければ、今でも知らなかったかもしれません。何かに自分で気づいたり咀嚼したり内省したりセルフコーチングしたりさえ、できていないことでしょう。そりゃあ、もちろん、ボク自身の途轍もない努力もありましたよ。でも、やっぱり、タッキー☆がいなかったら、ボクはこんな風にはなれていないと確実に思います。

一時はバー経営も目指したし、タッキー☆をボクのメンターにしてモデルにした時もありました。でも、今の揺るがない自分ができたのは、やっぱり元を辿れば、タッキー☆だったんです。そのタッキー☆のことを「大岳さん」から「タッキー☆」と呼べるようになるまでには、それでも時間がかかりました。ボク自身、最初はセッションではなくタッキー☆と親しくなりたいと思いました。でも、すぐにその時のボクは友だち感覚では自分はよくならないと確信しました。カウンセラーとクライアントとして、しっかり自分を変えていこうと思いました。そして、その上下関係の中できちんとラポールを取って、信頼関係を築けていきました。実は、今のように仲間とか同業者のような関係性になれるとは思っていませんでした。でも今は確実に同じ方向で学ぶ仲間とかお友だちとか同業者という存在として、誇りに思えています。そこにまで来れたことにも感謝するし、今はその関係性として見てくれているタッキー☆にも感謝しています。

みんなとのお祝いも大切だけど、どうしても個人的にお祝いしたかったし、これを伝えたかったです。あかん、改めて感謝すると感極まってくる…。

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奇しくも、ボクが退職を決め、人生をよりよく変えていこうと一大決心をしたタイミングでのタッキー☆の結婚でした。カウンセラーとして起業を始めたばかりのタッキー☆が、ボクに雇われてくれてカウンセラーとして着実に成功して結婚するというのと同じ期間を使って、ボクは回復し復職し、今度は本当の生きがいを見つけて転職をします。すごいことだと思いませんか。そして、また、ゲイのボクではありえない「結婚」という幸せの見つけ方、ボクの前を行くタッキー☆から、タッキー☆とは違う別の幸せを捜せよ、と言われているような感じがします。そして、ボクの選べない結婚というひとつのゴールを迎えたタッキー☆を心から祝福したいと思いました。

とはいえ、この日は別に特別なサプライズをしたわけでなく、ただ、一緒に飲んでもらっただけ。いろんなバカ話で盛り上がったけれど、でも、ちゃんと祝福は伝えられました。

カウンセリングという大きな括りでは、同志なので、大事な仲間になりましたが、目指す方向や活動は少し違うので、タッキー☆をボクのメンターだと呼ぶのはやめました。でも、ボクの人生を大きくいい方向に変えてくれた大切な人には間違いないです。

本当に心から祝福したかったです。あと、パートナーのゆりちゃんもお友だちになってくれて、ありがとうございます、って思っています。

ふたりとご一緒して、お祝いして、より、これからもっとワクワクしながら頑張っていきたいな、と覚悟と目標ができました。

タッキー☆、ゆりちゃん、おめでとう。末永くお幸せに。そして、心からありがとう。これからもよろしくです。

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2012年11月17日 (土)

完璧

ボクは完璧主義者です。

これをやめたつもりでいましたが、前にも書いたとおり、まだやめられてはいなかったように思います。逆に、ボクはボクの中に完璧を求めがちな部分を受け入れてしまったから、余計にたちが悪いです。

自分の完璧を貫くために、誰かを傷つけたり貶めたりするのは本意ではありません。でも無我夢中になると見えなくなってしまうんですね。だから、完璧を求める自分を認めているものの、その気持ちのまま突き進まないようには心掛けてはいます。

何かを完璧に近い状態にまで持っていこうとするとき、空腹や眠気を気づかなかったりします。それで、体が悲鳴を上げていたのに、その悲鳴にさえも耳を塞いでいました。なるべく今はその声に耳を傾けるようにしていますが、今年手術をしたように、まだまだよく声を聞けていないんだと思います。何かへの完璧を目指すために健康を損ねて人生を台無しにしてしまっては意味がないですよね。ひとつの小さな完璧さを求めることで、人生の完璧さが台無しになっていく、それでは、完璧主義が聞いて呆れますよね。

人生に完璧なんてありえないと今は思います。ひとつひとつの小さな出来事も単にその縮図であり、結局は完璧なんて無理なんだと思います。でも、それをついつい求めてしまう自分にダメ出しはしなくなったので、そこは結構いろいろきちんとしている、というような都合勝手のいい解釈にしている感じです。そこを両方認めていれば、まあ、ボク的にはそれを赦せます。だからちょっと面倒くさい人間だ、くらいで、自分的には落ち着いているのです。

でも正直、ボクにとっては、無茶苦茶緩めすぎて弛みきっているくらいの完璧さ加減で、普通の人生にはちょうどいいのだと思います。

もし、人生が運転であると喩えたとして、走り続けることが運転することだと思っているのがボクのような人間ですね。もちろん運転に走行は必要だけど、信号では停止するし、時々停車や駐車をするし、なくなればガソリン補充もしなければいけない。メンテナンスを怠らなければ車は長持ちします。そういうメンテナンスできる人生の方がよりいいんでしょうね。

そういう雰囲気をちゃんと捉えながら、自分の完璧主義を多少いい風に長所にして、いい人生にしていきたいです。

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2012年11月16日 (金)

悪夢

最近、よく悪夢を見ます。

回数の多いのが、33年前に死んだ父が大きな川を挟んで対岸で微笑みながら「おいでおいで」をしている夢です。ボクは川に引っ張られそうになるんだけど、行きたくなくって必死に抵抗します。そうして、魘されて起きるんですね。起きた直後、それは「三途の川」なのかな、と思ったりします。父の微笑みに導かれて、川に入ってしまったら、寝たまま死んじゃうのかなぁ、なんて思ってます(笑)。笑ってるけど、ホントは結構笑いごとではないのかな、と思ったりします。もしそうだとしたら夢で「三途の川」を何回も見ているボクって貴重な存在ですね。

最近亡くなった知人や、最近亡くなった著名な有名人も、よく夢に登場して魘されて起きます。疲れているのかな、頑張りすぎているのかな、「もう苦しまなくていいよ、楽になりなよ」とか、言われている気がします。鬱だった時のネガティヴに似ているかもしれません。でも、大丈夫ですよ、ちゃんと起きますから。

夢って不思議な現象ですよね。知らないうちにストレスがあるのかもしれませんね。自分ではストレスだと感じていないかも。ストレスがあるから、こんな夢を見るのだと言われれば、否定しきれないかもしれません。う~ん、無意識下で感じていることはわからないですね。なんせ、無意識なんですから。もし、うまく伝えられていたり、自己表現していると思っていることの下に、何か我慢のようなものがあるとしたら、それは解放しているとは言えませんからね。アサーティヴにうまくやれてるかどうかなんて、本当の無意識の無意識ではわかりません。それを悪夢が教えてくれているのだとしたら? これは看過できないですね。

でも、悪夢って必ずしも悪いものではないと聞いたことがあります。夢判断などによると、「落ちる夢」や「人を殺す夢」や「人に殺される夢」は、自分の「再生」を意味していると言います。つまり、何か、新しい行動を起こそうとするとき、生まれ変わった気持ちで、人生をやり直したいときは、そういう夢を見ることがあるのだそうです。本当かどうかは知らないけれど。

昔、母の介護で自分を見失っていたとき、よく蜘蛛の夢を見ました。蜘蛛はボクの大嫌いな生き物です。どうしても苦手です。1メートルくらいの巨大蜘蛛が部屋の蛍光灯の笠になって、わっさわっさと天井からゆっくり降りてきてボクを襲う夢を見たものでした。これは今は見なくなりましたが、当時はあまりによく見るので、夢判断で調べたことがありました。蜘蛛の夢はいろんな意味があるらしく、結局よくわかりませんでしたが、その中に「蜘蛛=母の象徴」というのがあったのを記憶しています。襲われるほど、母の介護がつらかったのかもしれません。もう、見なくなったので、余計にそう思っちゃいます。

ボクは、今は転職のチャンスを狙っているようなそういう時期だから、悪夢もいいと思うことにしています。「再生」のようなイメージで。父に会って魘される夢も、余り気にしていません。ただ、それで睡眠不足で出勤遅刻したり、欠勤したりはどうかな、と思いますけどね。

こういう悪夢を見ることが多いからかもしれませんが、「退職」「起業」を目の前にして、最近よく「職場を卒業する」という言い方をよくしている自分に気づきます。ちょっと、気合入りすぎている気がするので、これからは「フリーになるんだ」という言い方に変えてみようかな、と思ったりしています。少し肩の力が抜けた言い方になった気がしませんか? 実際言ってみて少し楽な感じがするし。

ちょっとおどろおどろしいブログ記事ですみませんでした。昨日のブログといい、ちょっとボクらしくないかも、ですね。まあ、こんな時期もあります。今日は久しぶりに「活動」ではなく、「日常」のカテゴリーで書いてみました。早めに元のブログの雰囲気に戻しますね。

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2012年11月15日 (木)

毒舌

ずっと本の紹介をしていたら、やっぱ、書きたいことが山のようにたまってきて…(笑)。先週、コーチングスクールの授業で、とても苦しいことになったというブログ(11月10日付け「豆腐の Ordinary Life」ブログ記事「自然」)を書きましたが、その前、授業を受けた直後に Facebook に思いっきり毒を吐きました。それは、

 今日の授業はめちゃ苦しかった。でもすごく成長したぜ~。
 今から毒を吐くから、みんな、よ~く耳をかっぽじって聞くよーに
 おい、みんな! ワクワクすることばっかやってんじゃねー!
 苦しみから得られる貴重な宝物もいっ~ぱいあるんだぜっ!
 みんな、もっと苦しめー!
 すいませんm(_ _)m 暴言吐きました(笑)。

というものだったんですが、そこに思ってもいないほどのたくさんの反応をいただきました。それは、「痛快だった」とか「もっと毒づいてください」というようなものから、「ワクワク100%なんですが」というようなものまでさまざまでした。アサーティヴに伝える勉強をしているとか言っておきながら、こんな風に爆発してしまってはあかんのですが、まあ、これも自然体になってみて出てくる言葉で、こういう発信も別にいいんじゃないかと思っています。要は、別にワクワクしててもらっても、その人の人生だし、別にかまわないんですが、ボクの思うのは、「違和感を感じるから見ないことにする」というのが、ボクは嫌いですよ、って意味です。ボクは、自分が苦しい思いをして違和感を感じたときに見ないことにすることはできないので、どこからくる違和感かをちゃんと見ておきたいと思うだけなんですね。たぶん、苦しみを乗り越えた達成感が好きなんでしょうね。そこにすごい醍醐味を感じます。ある意味それはボクにとってワクワクかもしれないです。だから、ワクワクがいけないということではないんだな。ちゃんとそこを見つめた結果、苦しいのは嫌だからワクワクする方に行くというのは、全く否定しないです。ってか、否定自体は誰にもしたくないんです。それが、どんな極悪人であろうが、大嫌いな人であろうが。ただ、違和感を見ておかないで、肝心な時に足をすくわれちゃいそうな気がする人がたくさんいるような気がするという意味です。だから、ちゃんと見つめている人が好きだな、と思ったってことなんですね。

たとえば、公務員であるボクに限らず、会社勤めをした経験がある人なら簡単に解ると思いますが、「どうしてもやりたくないことをやらない」と言うのは組織の中では通用しません。「どうしてもやらなければいけないやりたくないこと」は「やりたいこと」にしていけば、さくさくと進むと思います。それは「心からやりたいこと」にした方が望ましいけれど、「うわべやりたいことのようにしておく」だけでもかなり違うと思います。「この先にやりたいことのために必要な準備だからやっておきたい」「この先にやりたいことを取り組む時間とのめり込む余力が欲しいから心配ごとを早く片付けたい」、何でもいいから、そうしておくと、朝、億劫で起きられない時間は多少ボクの場合改善されたりしました。そういう環境に置かれていない人なら何でもいいでしょう。でも、これは普通の人間関係においても言えることだと思います。考え方の合わない人だから、遠ざかっておく、これも、すべての人とうまくやれるわけではないのだから、考え方それぞれで別に構わないです。でも、ボクは、どんな人であれ、非難をせずにその人の人となりや自然体をただ受け入れておこうと思うわけなんです。それが伝えたかったわけです。

うわべだけを見て、分かったようになっている人がとても多い気がします。ボクができた人間だと思っていないけれど、もっと貪欲に自分のことをしっかり見つめてほしいと思ったりします。それがその人にとってハイアーセルフだとか高我意識だとかにつながり、人性豊かにできるなら、別に何も言うことないんですけどね。ボクの杞憂かもしれません。

それと、うわべだけといえば、ボクが最近、自分の思考に嵌り込こんでいるときに、苦しいけど決して辛いわけでなく、そこをきちんと見つめることで、あとあとの成長にすごく繋がっているのを感じるときが多いです。それで自分は、望ましいと思っているのに、表面上の苦しいとこだけをうわべ見て、ボクは内省しているだけなのに、傷つけたと思い込んで謝ってくれたりする人も多いんですね。謝ってこなかったとしても、疑問に思って言う人がやたら多いです。だから、「成長が心地いいから心配しないで」とをいちいち説明しないという面倒くささを感じてしまったりします。それがマイノリティの宿命といえばそれまでなんですが。それでも、言っていける人が少ない分だけ、そこを丁寧にやりたいと思うので、言い訳がましい説明をすることになったりします。たとえボクが曝し者のような被害妄想を感じてしまっても、たとえ見た目興味本位のように見えても、ボクは知りたい知識欲が強い人には、丁寧に伝えたいと思ったりします。そして、それがまた苦しそうに見えてしまったりね。なんだか、ジレンマな感じがします。

「自然体」についていろいろ思ったりするのも同じことで、セクシュアルマイノリティって、本来「自然体」になりにくい要素がすごく多いと思うわけですね。そのボクが「自然体」についてこんなに語るということについて、「なぜなんだろう」ともっと思ってくれていいのになぁ、とかよく思います。それなのにボクが常々言っている「生きにくい感じ」よりも、「セクシュアルマイノリティ」の興味本位に走る人たちって、視点を変えたらいいのになぁ、と、とても思っちゃうんですよね。「セクシュアルマイノリティ」という事柄に意識せずに、「ボクが克服しようとしている点」はどこから湧いてくるんだろうということにフォーカスしたら、もっと、みんなの違和感の改善に繋がるんじゃないかと思っちゃうんですけど。ボクが違和感を感じるのがやはりマイノリティの現場に多いし、それを書いちゃうから、分かんないことについて質問が来るのは仕方ないんですけどね。かといって、マイノリティやセクシュアリティという言葉を使わずに伝えるのも不自然だし。まあ、人が感じることなんで、無理に押し付けようとも思わないしどうでもいいんだけれど、それを投げやりっぽく吐き出すと、「毒舌」風になるんだと思います。

結婚しない人、結婚できない人、何度も同じ失恋パターンを繰り返してしまう人、何度も離婚してしまう人、結婚生活がうまくいかない人、子供を作りたいのになかなか授からない人、どうしても愛情が暴力という表現になってしまう人など、そういった人たちは、ボクのような、ハナから結婚や子供を可能性低いという状況に置かれているセクシュアルマイノリティを反面教師にして、その人の自分に照らし合わせたら勉強になることいっぱいあるのにと思ってしまうわけですね。せっかく「セクシュアリティ勉強会」とか開催しているし、しかも、実体験を言えない人たちが多い中で、ボクなら何でもしゃべるのに、と思うから、ボクと親しくするのはすごくお得だと思うんですけどねぇ。大きなお世話ですか? 思い上がりですか? まあ、ボクの方は、毒づきたくなったら毒づくので、面倒なことは多くあるけど、宿命だと思っているし、ストレスにもなっていないし、いいんですけどね。

今日は、攻撃的なアグレッシヴなブログになりました。今日だけ、アサーティヴを心掛けてた誰かさんの方向性は見逃してやってください。

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2012年11月14日 (水)

「『ザ・マネーゲーム』から脱出る方法」

今日も本のご紹介。今日は「『ザ・マネーゲーム』から脱出する方法」です。

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また内容と著者紹介をブックデータベースから引用します。

「マネーゲーム」とは、私たちが誰しも参加しているお金のゲーム。このゲームは、たとえどんなにお金を稼いだとしても終わることはありません。一生、お金という幻想に追われ続けるゲーム、誰も永遠に勝つことができないゲームです。そこから抜け出さない限り、本当の豊かさも、幸せも、手にすることはできないと著者は言います。では、どうすれば抜けられるでしょう? それは、今私たちが持っているお金に関する知識や理解のすべてが、よく考えられた壮大なゲームなのだと、心から「納得」することです。本書には「マネーゲーム」のしくみを理解するためのさまざまなポイントが挙げられ、読み進めるにつれて、今まで持っていたお金に対するネガティブな概念がくつがえされ、まったく新しい視点からお金をとらえられるようになります! また、本書には「感謝」「プロセス」「ミニプロセス」「独り言の強化」の4つの道具を使いこなして、マネーゲームから完全に脱却する方法が、豊富な具体例とともに紹介されています。非常に強力なこの4つの道具の使い方をマスターすれば、お金に振りまわされる毎日から、お金という制限を軽々と超えた、豊かな毎日へと変わるでしょう。自分本来の自然な姿「本来の私」でいることこそが、あなたの最大の力を発揮し、無限の豊かさを生みだします。本書に紹介されたメソッドを使えば、いつでもパワフルな「本来の私」に戻れるでしょう。すると、口座残高も請求書もカードの支払いも、まったく気にせず、無限の豊かさを享受できる人生を創造できるようになります。著者は、世界で活躍中のスピリチュアルカウンセラー、ロバート・シャインフェルド。世界的な人材派遣会社マンパワー社の創業者である祖父アーロン・シャインフェルドから、お金についての教えを受けました。そのエッセンスをもとに自らのビジネス経験から学んだ知恵をまとめたのが、本書です。これまでのマネー本にはなかったまったく新しいメソッドは、あなたのマネーライフと今後の人生の豊かさを大きく変えるでしょう。
今回は、日本を代表する「お金の専門家」でありベストセラー作家、本田健訳。わかりやすさ、ワクワク感満載でお届けします!

著者ロバート・シャインフェルドは、世界的に有名な人材派遣会社「マンパワー」創業者の孫。専門はダイレクト・マーケティング。祖父が伝授しようとした成功の秘訣「第11番目の鍵」の秘密を解き、講演や著作を通じて、190か国以上で何万という人びとに成功の定義と、人生の「成功」への道を変えさせる。経営に関わったブルー・オーシャン・ソフトウェア社は、ビジネス誌「インク500」の最速成長企業第1位となった。

翻訳の本田健は、経営コンサルティング会社やベンチャーキャピタル会社など複数の会社を経営する「お金の専門家」。育児のかたわら、お金と幸せについてのセミナー・講演会などを不定期に行う。『ユダヤ人大富豪の教え』などの著作シリーズはすべてベストセラー。累計発行部数は、400万部を超え、世界中で翻訳されつつある。

本田健さんの本は何度も紹介していますよね。これは、人からいただいた本ですが、まあ、簡単に言えば「お金」のブロックについて書かれた本だといえます。本田健さん自身が初めて読んだときにはてなマークがいっぱい浮かんだといいます。結局はどの本を読んでも、「達観」とか「悟り」の境地にはまっていく感じがします。設定や言い回し、言葉の使い方が違うだけで、こういう多少スピリチュアルの入った啓発本は、自分に落とし込めなければ何を読んでも同じなんですよね。逆に言えば、どの本を読んでも腑に落とせる人は簡単に腑に落とせるんだと思います。わかりやすさが秀でているか、もしくは、どのくらい取り組ませられるかが、読む人にとってのその本の価値だと思います。お金のブロックにやられていると実感している方には当然お勧めですが、お金のブロックは取れていると勘違いしている人も読んでほしい感じはしますね。

とか言っても、ボクがお金のブロックがないのかどうかは不明です。それは、退職して以降わかると思います。退職してから、また、起業してから、読み直してみたいと思う1冊です。

◎作品データ◎

「『ザ・マネーゲーム』から脱出る方法」

著者:ロバート・シャインフェルド/訳者:本田健

2011年9月初版/株式会社ヴォイス発行

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2012年11月13日 (火)

「『また、必ず会おう』と誰もが言った」

今日も本の紹介です。ボクにしては珍しく小説です。というか、もともと啓発本より小説やエッセイの方が好きなんですけどね。そしてさらにボクが紹介するとは思えない、難しさのまったくない本です。誰でもすら~っと読めてしまいます。読才は要りません(笑)。「『また、必ず会おう』と誰もが言った」です。

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あらすじと解説をブックデータベースから引用します。

主人公・秋月和也は熊本県内の高校に通う17歳。ひょんなことからついてしまった小さなウソが原因で、単身、ディズニーランドへと行く羽目になる。ところが、不運が重なったことから最終便の飛行機に乗り遅れてしまう和也。 所持金は3400円。 「どうやって熊本まで帰ればいいんだ……」。途方に暮れる彼に「おい!若者」と声をかけたのは、空港内の土産物売場で働く1人のおばさんだった――。 

人生を考え始めた高校生に大人たちが語りかける、あたりまえだけどキラリと光った珠玉の言葉。誰の人生にも起こりうる出来事から物語をつむぐ名手、ベストセラー作家の喜多川泰がお届けする感動の物語。“この物語では、一人の若者が旅を通じていわゆる普通の人たちと出会い、その人たちの日常に触れながら、自分の日常を見直す機会を得ます。その中で彼は同時に「生きる力」についても学んでいきます。思えば僕たちの人生も同じです。 予定通りに行かないことの連続。その中で起こる愛すべき人たちとの出会い、そして別れ。その繰り返しの中での気づき。この本によって、積極的に人との出会いを求めて行動し、そして、生まれながら備わっている「生きる力」を磨こうとする人がひとりでも増えるきっかけになれば、著者としてこれ以上嬉しいことはありません。”(「あとがき」より)

この小説は、1人の少年が出会いを通して成長していく旅物語です。不思議なご縁から原稿を手にした瞬間、私は直感的に「運命の出会いだ!」と感じました。それは、物語のディテールが、私自身の抱えているリアルな日常とあまりにもシンクロしていたから。この物語には、特別なヒーローなど登場しませんし、目を覆うような事件も起こりません。主人公と絡んでいく大人たちは、どこにでもいるような人間ばかりです。ところが、あたりまえの大人たちが語りかける言葉の1つひとつが、妙に輝いて見えるから不思議です。そこが、人気作家・喜多川泰さんの持ち味なのでしょう。とにかく、まずは大人たちに読んでいただきたい。そして、身近にいる中学生や高校生の子供たちに手渡してほしい。この本に関わった1人として、切に願っています。

で、ボクの個人的な感想としては、冒頭で書いた通り、優しい文体で誰でも読める小説っぽくない小説になっています。誰もが優しい気持ちになれるので、ぜひ読んでほしいと思います。まあ、コーチング的に言うと、「引き寄せ」みたいなもんですね。でも、我々のよく使うメンター的な特定の誰か1人がいるわけでなく、旅の中で出会う人たちがその場その場でメンターのように存在する、人間的な普通のおじちゃんおばちゃんおにいちゃんおねえちゃんたちの中に、一期一会を見つけていく思春期の少年の物語なんですよね。こういう出会いをし、こういう健全な感じ方を思春期にしていけば、みんな素敵な大人になっていくんでしょうね。こんなきらきらした青春だったら、ボクもこんな風になっていなかったかも(笑)。まあ、それこそ「自然体」で読んでほしい一冊です。

◎作品データ◎

「『また、必ず会おう』と誰もが言った」

著者:喜多川泰

2010年11月初版/サンマーク出版発行

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2012年11月12日 (月)

「実践 セルフ・アサーション・トレーニング」

せっかくなので、今日も本をご紹介。今日はセクシュアルマイノリティとは関係ないです。去年買ってから、ぺらぺらとしか見ていませんでしたが、夏前から真剣に読んでセルフトレーニングしてみた「アサーション」に関する本です。

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MARCデータベースの紹介をそのまま引用させてもらうと、セルフ・アサーション・トレーニングの目的や実践の際のプログラム構成を解説し、アサーティブ行動をトレーニングする意義などを詳述。「情動知能」をトレーニングによって自己教育する方法を伝授してくれています。

みなさんは、アサーションという言葉をご存知ですか? アサーションとはコミュニケーション・スキルのひとつで、最近は企業や学校などでアサーション・トレーニングが行われているようです。アサーションの発祥はアメリカで、1950年代に心理療法の行動療法として生まれたようです。初めは自己主張が苦手な人を対象としたカウンセリングの技法のひとつとして実施されていたようですが、1960年代ごろから人種差別の場面で、差別を受けていると感じている人たちに勇気を与えたようです。そして、アメリカでその理論を学んだ平木典子氏が日本へ持ち込んだようです。この辺のエピソードもボクとしては、惹かれる要因になったかもしれません。

アサーションは、直訳すると「主張」や「断言」となってしまいますが、どうやら、ここのコミュニケーションのツールとしての役割の上では、「自己表現」くらいに考えてもらっていいように思います。まあ、ボクも本を読んだ程度なので、あまり詳しいことは書かない方がいいかもしれませんが、アサーションの理論では、コミュニケーションのタイプを大きく3つに分けて考えているようです。アグレッシブ(攻撃的)、ノンアサーティブ(非主張的)、アサーティブの3つです。アグレッシブな方法は、自分のことを中心に考え、相手のことはまったく考えない攻撃的な伝え方ですね。ノンアサーティブな方法とは、自分の感情は押し殺して、相手に合わせるような伝え方をいいます。で、アサーティブな方法とは、自分の気持ちや考えを相手に伝えるが、相手のことも配慮するやり方、自分も相手も大切にした伝え方をいいます。

菅沼憲治先生の情報としては、1971年日本大学文理学部心理学科卒業、1976年日本大学大学院文学研究科心理学専攻博士課程満期退学、1991~1992年カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校カウンセラー教育学部留学、千葉商科大学商経学部教授・専任カウンセラーを経て、現在、茨城大学大学院教育学研究科教授、日本論理療法学会会長、カウンセリング心理学専攻ということです。また、牧田光代先生は、駒沢大学文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科修士課程修了。医療領域での臨床活動を主とし、現在、小坂クリニック勤務をされているようです。

まあ、本を読んだだけで自己流で独学のやり方でしたが、意識するようになって確実にトラブルは減りました。そのおかげでストレスも減っていると思います。コミュニケーションをとっていくうえで、また関係性を構築するにおいて、覚えておいて損はないと思います。このことで気持ちは安定し、とても楽になりましたが、ただ、今月の母の救急搬送の時の自分で驚くほどの冷静さは、ある意味、取り乱さない自分に「冷たさ」みたいなものを感じてしまい、もう少し感情的な自分も好きでいたいとも感じました。TPOに合わせていつでもどこでも使いこなせるといいなと思っています。

◎作品データ◎

「実践 セルフ・アサーション・トレーニング」

著者:菅沼賢治・牧田光代共著

2004年6月初版/東京図書株式会社発行

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2012年11月11日 (日)

「『性別が、ない!』人たちとのつきあい方」

今日はボクの持論は少しお休みして、今年に入ってから読んだ本の中から印象に残ったものを1冊ご紹介。

「『性別が、ない!』人たちとのつきあい方~実はあなたにも当てはまる20の性別パターンガイド~」です。

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半陰陽の新井祥さん著のガイド本です。帯のキャッチコピーとしては「性別は男と女だけじゃない!! 外見の特徴・タブー発言・困った時の対処法など、両性具有作家・新井祥が描く、日本初! 性別取扱説明コミック!!」となっています。要は、あらゆる性の多様性のパターンを20に分類化し、そのパターンがどんな人でどんなことを日々考え何に悩んでいるか、どうつきあっていくか、どんなところに注意したらいいかを、視覚的にわかりやすく読みやすく解説がしてあります。

 

著者の新井祥さんについては、帯の紹介によると、「30歳まで女性として暮らしてきたが、染色体検査で半陰陽(男と女の中間の性)と判明。男性化したり女性化したりする自分の体質の謎が解け、縮胸手術を受ける。以降、男性として創作活動を続ける。現在『本当にあった笑える話』(ぶんか社)シリーズ誌にて『性別が、ない!~両性具有の物語~』を連載中」とあります。

まあ、ボクがこれまで読んだ本の中でいちばんわかりやすく堅苦しくなく面白くセクシュアルマイノリティのことを書いていると思いました。最初はこれを去年のうちにプレゼントでいただいたんですが、今年に入ってから食い入るように読み込みました。ただひとつ、残念なのはこの20のパターンの中にボクが当てはまらないという点です。性自認が男性で違和感がなくオネエのほとんど入っていない男性同性愛者や、性自認が女性で見た目も心も女性である女性同性愛者のことがパターンにないことです。まあでもそれだけ多様性があるということで、これは結構画期的な本だと思いました。

もしボクらセクシュアルマイノリティのことを少しでも知りたいと思っている方、つきあい方を知りたいと興味をお持ちの方は、是非ご一読ください。おススメです。

◎作品データ◎

「『性別が、ない!』人たちとのつきあい方~実はあなたにも当てはまる20の性別パターンガイド~」

著者:新井祥

2011年7月初版/ぶんか社発行

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2012年11月10日 (土)

自然

小難しいことはひととおりおとといで一段落書き終えた気がしたので、少し気楽なブログをと思っていましたが、またいろいろ考えてしまいました。

昨日、コーチングスクールでの授業を受けて、しんどくなってしまい、胃薬を飲んじゃったほどでした。授業の内容は「自然体」についてでした。そのテキストにはボクがここのブログで書いた記事(2012年7月11日ブログ記事「自然体」)が使われていました。このことは前もって連絡をいただいていたので、ボクとしては光栄で恐縮するほどうれしい限りでした。それを授業で生徒として参加するのは初めてだったので、正直かなりワクワクしていたんですが、なぜか途中から、苦しくなってきてしまいました。まるで、裁判で被告人席にいるような気分になってしまいました。

まあ、なぜかというと、たぶん、「自然体」のことについてどういう感覚かを話すというより、なぜマイノリティがそこまで苦しいのかに話の焦点が集まってしまったせいだと思います。そこは、ボクはどんなに説明が面倒くさくなっても平気な立場を取っていたし、実際苦しくならないと思っていたので、まだ苦しい自分がいることにも驚きました。それに、そこをどう咀嚼していこうかということに自分の意識が集中してしまったので、「自然体」を味わったり語ったりすることができなかったせいだと認識しています。

泣けそうになるくらい苦しくなりました。ただ、その苦しみはすでに癒していると思っているので、ある程度苦しみも心地よい感じはあって、辛かったと言うとそうでもないです。昔、それで苦しんだなぁ、というその苦しみが蘇ってこみあげてしまったというのが適当な表現かもしれません。その苦しみに「差別をされた」とか「はじかれた」というような感覚はないのです。「苦しい」ということ自体、まだまだなのかもしれないし、それで大丈夫なのか、という見られ方をされても仕方がないと思います。でも、この苦しみはボクがマイノリティである以上、ずっと感じ続けるのだと思うので、苦しくても辛くなければ、それでいいのかな、と思います。この感情をまた味わって、今のボクはそういう状態なんだと思うし、「自然体」のブログ記事を書いた時よりもさらに進歩しているようには感じました。

でも、こうしてこのことを書いている今でも「苦しくて辛くはなかった」というのが、わかってもらいにくい感じはしていて、人によって「苦しみ」や「辛さ」の言葉の定義は違っていて、「苦しい」方が大変な人もいれば、「辛い」方が大変な方もいます。

ボクは昨日、口数が少なくなってしまったことで、周りに心配をかけたし、そんなに凹んでいたわけではないので、もっと冷静でいるべきだったかもしれないです。でも、苦しかったのを正直に伝えたいと思ったし、むしろもっと感情露わにして号泣して喋ればもっと伝わったかもしれません。でも、今のボクは、その反応がもっとも自然だったんだと思います。

昨日は「自然体」を学ぶ日でした。「自然」という言葉があって、はじめて「不自然」という言葉ができたんだと思いますが、今のボクにとって「自然体」とは「不自然」さを感じていない状態、というのがとてもしっくり来る気がしてきました。

昔のボクは、男女間の恋愛が100%自然で、恋愛の場面においては、やはりボクらマイノリティは不自然だと思っていました。今の社会ではまだこの構図が成り立っていると思います。でも、ボクの中ではボクが男に対してしか恋愛対象にできないことはいたって自然なことなわけです。だから、先々週あたりから、自分が不自然だと思うのをやめました。つまり、男女間の恋愛が100%自然だと認めながらも、自分も自然であって不自然ではない、ということにしたんです。

ただ昨日は、それをまだ不自然だと思っていたころの息苦しさがリアルに蘇ってしまったというだけなんですよね。苦しくなったのも「自然体」で臨んだ授業だったからということなんだと思います。

社会において、人が何の悪気もなく、いたって普通のこととして話をする場面で、マイノリティはこういう感覚にいつ陥ってもおかしくないわけです。誰もボクのことを裁いていないのに被告人席にいるような、曝し者になっている気分になった…これは、どういうことなのか、またしっかり取り組みたいと思います。そして、苦しむことはボクは怖れていないけれども、こうなる感じをしっかり味わって、マイノリティのパイオニアとしての活動に生かしたいと思います。

すごくいい勉強をした気がしたゆうべでした。

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「第7回 セクシュアリティ勉強会」のお知らせ

みなさんの心の中に、ほかの普通の人とどこか違う、違和感に感じていることはありませんか? それは、もしかしたら、あなたにしかない光り輝く宝石のような個性かもしれません。「性差」という視点から、その個性について一緒に勉強してみませんか。

第7回 セクシュアリティ勉強会

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日時 2012年12月15日 土曜日 15:00

場所 : 名古屋市東スポーツセンター 2階 第1会議室 

参加費 : 無料

参加資格 : どなたでもご参加いただけます 先着20名様まで

「セクシュアリティ勉強会」も今回で7回目を迎えることができました。セクシュアルマイノリティの方、セクシュアルマイノリティの方が周りにいらっしゃる方、セクシュアルマイノリティについて理解を深めたい方、どなたでもご参加いただけます。性差という視点から、個性について一緒に勉強していきましょう。今回も第6回に引き続き「セクシュアルマイノリティと教育」というテーマで開催します。今回もディスカッション・講義の他にワークをやってみようかと思っています。たくさんのご参加をお待ちいたしています。

お問い合わせ・お申し込み先

 マイノリティのパイオニア(セクシュアルマイノリティコーチ)  豆腐

  Email : torff@na.commufa.jp

  携帯mail : torff.625-dorff.729@ezweb.ne.jp

Facebook、mixiメッセージ、twitter、amebaメッセージなどからもお申し込み可能です。定員になり次第終了させていただきますのでご了承ください。お受付させていただいた方には24時間以内にご連絡させていただきますので、メールアドレスを添えてお申し込みください。(入院中は24時間以内の返信ができない場合もありますので、ご了承ください)

※セクシュアルマイノリティに強く批判的な方、誹謗中傷・からかい目的の方はご遠慮ください。

主催:豆腐(協力:セクシュアリティ勉強会実行委員会)

また、今回は勉強会後の親睦会も兼ねて忘年会にしようと思っています。名古屋の大曽根近辺の居酒屋で考えていますので、併せてよろしくお願いいたします。こちらは会費が別途かかりますが、3500円程度で収めたいと考えています。が必要になります。親睦会の参加可否も併せて申し込んでくださいね。もちろん、勉強会だけでも結構ですし、特に今回に関しては親睦会だけの参加もものすごくOKです。たくさんの参加表明お待ちしております。よろしくお願いします。

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2012年11月 8日 (木)

努力

「努力」という言葉が好きでした。ボクの親友に名前を「努力」と書いて「つとむ」と読むヤツがいるんだけど、いい名前だな、とうらやましかったです。

昔、虚弱体質だったボクは社会人になってから、スポーツジムに通い始めて、女性よりも軽い負荷からでしかマシントレーニングを始められなかったけれど、それでも、めげずにこつこつやって、一時は体脂肪率ひと桁だった時もあるし、胸囲が100cm近くあった時もありました。そのトレーニングのおかげで、小中学生のころは持久走で、超おデブの同級生の子しか後ろにいないような状態だったのがフルマラソンを10回以上も完走できるようにもなりました。ストイックだとか、いろいろ言い方はあるけれど、結局は「頑張ればなんとかなる、コンプレックスは払拭できる」ということを無理やり体感させていました。今考えると、単に強くなりたかっただけです。

このところ、毎日のように書いているようにセクシュアルマイノリティであることは、過去は、ボクにはマイナス面であって、それを補う何かが必要でした。それは「努力」という見た目美しい言葉によって、ボクはマインドコントロールされていたように今は感じます。

「努力」が悪い言葉だとは思いません。それは、使い方によっては、素晴らしい結果を生みます。でも、これが足かせとなって、体を壊すほどやりすぎたりしては意味がないですよね。

常々、ボクは体の声に気づけないと書き続けています。大体、80%でとどめておこうと思うと100%やっています。100%やったと思うときはたぶん120%くらいにやりすぎています。疲れはやり終えてからしかやってきません。やりながらすでに疲れを感じるときは体壊れるほどやりすぎています。それで、達成感を味わって体を壊すか、体を維持して消化不良な不満足感で抑えるかは、いつも悩ましいことだと、いつもブログに書いています。

今日、調査で外に出たときに、同僚から「豆腐さんは頑張ってはだめだ」と言われました。どういう意味か尋ねたら、「豆腐さんが頑張ったときは大抵頑張りすぎ、頑張りすぎたときはもう体壊しているから、豆腐さんは頑張らなくてちょうどいい」という意味でした。改めて、人からそう見られていることを認識しました。それは、友だちだけでなく、仕事仲間にもそう見られていたということです。あっ、これで傷ついたわけでないから心配しないでね(笑)。そう、書いとかないとみんな心配しちゃうよね(笑)。

まあ、それでも好きなことはやっちゃうけど、「無我夢中」なほどでなく「夢中」なくらいがいいのかな、という感じで意識しています。

努力すれば認めてもらえるかもしれない、そこから始まり、いつしか、「どう? 努力してるでしょ?」と努力をひけらかすような雰囲気になっていたかもしれません。

あらゆる意味で、こういうところ、すべて、違和感が出てくるたびに、「そうだ、ボクはこうだった」と受け止めていくと、多少はいびつな形が円形に近づいていくように思います。昨日、「認める」ことや「受け止める」作業がわからなくなってきたと書いたけれど、それも辞めようと思います。昨日「泣いた」ことで過去を癒せてないかもしれないと感じたことも、昨日中でお終い。もうそんな自分もわかったので、「まだそれで泣くんだぁ」と淡々と受け止めるだけですよね。涙が苦しかった過去を浄化してくれているくらい思っちゃった方が楽に思います。

きっと、ずっとしてきたパターンのせいで、また要らぬ努力をしてしまうかもしれませんが、それも、今現在のボクの最善の選択。今後、もっと達観していけばそれは、最善の選択でなかったことになっていくだけですね。選択し直すだけです。「認める」「受け入れる」の意味を体に説明していく必要はあまりないかも、といったところですね。

ずいぶん、最近思っていることはここしばらくで書けたかもしれません。明日、コーチングスクエアでの授業テーマが「自然体」。また何か気づかせてくれるかもしれないし、自分の自然体をさらに痛感できるかもしれません。できる限りの自然体で授業に参加してみようと思います。

小難しいブログが続きました。たまった、みんなと共有してみたい音楽や本や映画やDVDの感想など、またぼちぼちしていきたいなと思ったりしています。ま、レビューも骨折れるんだけどね。

ま、今日はこんなところで。

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2012年11月 7日 (水)

本心

最近、少し気づきのようなはっとすることがあって、いろいろつぶやいたり、ブログにまとめたりすると、みんなが心配してくれているということを知りました。何かを感じてつぶやくと、「何かあったんですか?」とか「嫌なことを誰かに言われたんですか?」とか「大丈夫ですか?」とかよく言われるということに気が付きました。もちろん、何かの出来事があって、それに思うことがあって、そういう気づき方をするんだとは思います。何のきっかけもなしに新しい変化があるわけではありません。でも、最近のボクはそうそう簡単に傷ついたりはしないので、勝手にボクの頭の中が思考を始めたり咀嚼を始めたりするだけです。辛さや苦しみからもがいて得たものではありません。なので、あまり心配しないでくださいね。気にかけてもらっているのはとても嬉しいんですが、心配されちゃうとつぶやきにくくなってしまいます(笑)。

おとといのブログもそういう反応をいただきました。あるコーチ仲間の方から、「『生きづらい』ってどういう感覚ですか? 豆腐さんはセクシュアルマイノリティなんだ、と思うだけで、何が『生きづらい』かがよくわかりません」というコメントをいただきました。そのあとセッションしたクライアントさんにも、「私もそう感じる」って言われました。コーチ仲間の方には、

たとえば、自己開示していない段階だと、「なんで結婚しないの?」とか「彼女を早く作れば人生楽しくなる」だとか、言われるたびに困惑してましたね。お弁当を作っていくと「それ、愛妻弁当?」とか言われたし、小さいころはよく「なよなよしていて気持ち悪い」と言われました。今はなよなよしてないけどね。そういうことの積み重ねが、説明が面倒くさいと感じたり、どうせわかってもらえないだろうと思ったり、女性が好きなふりをしておこうかなと思ったり、結婚してみようと思ったり、普通なふりをしようとしまたね、昔は。それが幼いころからの刷り込みになっていたのだと思います。たぶんいちばんつらかったのは、結婚と初孫を望む親の期待に応えられないのが、人間として脱落者だと、ダメ出しをしていましたね。男女の前提がなければ、楽なのに、堂々と生きられるのにと、50年間思っていました。自己開示し、カミングアウトしたあとはずいぶん楽になりましたが、普通じゃない自分を異常じゃなく特殊だとこころから思えるようになったのはまだちょっと前で、男性を好きになってしまう自分を不自然でなく自然だと捉えられるようになったのは、つい先週くらいのことです。でもそれは、ボクの問題であって、社会は変えられないと思っていました。今もそこは思っていると思います。ただ、人と違うのは、誰もが持っているところだと思っています。

と答えておきました。でも、今はそんなことをいちいち苦しんでいるわけではなくて、大勢のマジョリティの方の中にいるときに、「みんなは自然とこんな感情を持ったり、ボクに対して思議だな、と思ったりするんだなぁ」と思えるので、そういう大多数の中にいるときに苦しんでいるわけではありません。でも、そのあと、そのお友だちから、「そんな苦しい思いをされていたんですね」とか「自分の体験に重ね合わせました」とか「豆腐さんの自己開示は人の理解を得るのにふさわしかったんだなと思いました」とか返事が来たときは、泣けてきちゃったし、このブログを書いてよかったな、と感じました。

ただ、その時はそれがすごく良かったと感じたんだけれども、ここで泣けてきてしまうのは、まだ完全に自分を癒せてないのかもしれないとも感じ始めました。自分が自分を認めきれていないかもしれません。認めるとか受け入れるとかって、どこまでできている状態をいうんだろう、と思いました。許可とか受容とかの意味が少しわからなくなりました。苦しくないからもう認めたり受け止めたりできていると思ったけど、ここで「泣けた」ということが、そういう風にボクを思わせました。まあ、自分としてはそれでいいんだけど。

前に、どうしても闘ってしまう自分がいると書きました。それは、社会とであったり、自分とであったり、いろいろだけど、これも自分が癒せ切れてないから出てくるものなのかも、とも思ったりします。前回書いたように、ボクの過去の体験や経験が闘わざるを得ない状況を作ってしまうのかもしれないとも思います。また、闘わないとやりこまれてしまうから強くならなければならないと思った部分もあります。それで、人と会った途端にカミングアウトをしておくという行動パターンを作ってしまったのかな、とも思います。圧倒的大多数の人は、自己紹介の時に自分のセクシュアリティを告げたりしませんよね。だからこの行動は不自然なのかもしれません。それは、伏線を張っておくとか、鎧を被っておくとか、そんな結果になってしまうのかもしれません。でも、それが安全でやりりやすいからしてしまうというのが、本心にいちばん近いです。自分を癒せていないから、眠っていた戦闘本能が出てくる、っていうほど簡単に片づけられない気がしてきました。戦闘本能が呼び醒まされたのではなく、闘わないと「何とか生きていく」ということができなかった、というのが、本当のところに近い気がします。やっぱ、この生き方はいびつかもしれません。

ただ、これは、ボクの自然な感情です。ボクは、このあたりが少し人と違うから、自分は不自然な生き方をしていると思うのをやめました。今のボクはいたって自分に正直で自然です。あえて言うなら、もう少し面倒くさくない方がさらに楽かなとは思います。大多数の方が何の違和感もなく過ごしていられるような過ごし方をもう少し望む感じです。だから、少数派の宿命と言ってしまったりするのかもしれないですね。

今日のタイトルを「本心」にしました。前回の「本音」と何が違うの?って感じだけど(笑)、ボクにとっては、前回の「本音」の方が弱っちい感じが微妙にします。なんか、これでいいや、って思います。投げやりでなく、心からね。

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2012年11月 5日 (月)

本音

今日も最近思っていることをひとつ。

ボクは今、まるでセクシュアルマイノリティの味方みたいになっているけれども、別にそういう感じではないです。圧倒的不条理な気がするので、「差別をやめて」とか「我々の存在を知って」みたいな言い方になっているけれど、本意ではないです。それが違うというわけでもないけれど。

ボクはセクマイの方々にも、いろいろ言いたいことはあります。逆に普通の異性愛の方々にも当然あって、そっちの方が強く伝わっています。あたりまえだけど、それはなぜかというと圧倒的に大多数だから。そして、その大多数の人たちが知らないから。そして異性愛を前提にしかしていないから。仮にセクマイがもし5%くらいだとして、自己開示している人がその5%くらいだとしたら、伝わるのは0.25%分。だから言える人が声高になってしまっているというだけ。わかってもらいにくいことを声を大きくして言っているだけなんですよね。身近に存在を知ってもらうだけでずいぶんと生きやすくなるように思うから。

ボクは男女間の恋愛についてとても自然だと思うし、人間の本能に見合ったとても普通な体の仕組みだと思っています。そこに100%逆らうつもりは毛頭ありません。でも、ボクのようなタイプが少数であるかもしれないけれど、だからと言って自分を不自然だと思うのをやめました。ボクが男性を性対象とするのはボクにとってはごくごく自然な感情なんです。それを淡々と伝えていきたいだけ。「もう充分伝わったって」って言われたとしても、それはボクの存在がその人に認められただけ。言い方を変えると、ボクが生きやすくなっただけ。同じような人の生き苦しさは変わらないんです。なんとなく不公平感や不条理感が我々の中には残ってしまうんです。まさに先日言った通り、少数派はいろいろ「やりにくい」んです。そうかと言って何でもいいといいのでもなくて、もしセクマイにだけ、目に余る行為や、不自然なごり押しがあるとしたら、それもいいと思っていません。ただ、そういうことは、異性愛者間でも、同じ割合で存在すると思うんですよね。なぜ我々だけ気持ち悪がられるのかって感じてしまう。だからボクも異性愛者を100%認めるのと同時に、自分たちも不自然ではないと言いたいし、思いたいです。

よく思うのが、これは男女間でも同じだと思うんだけど、友情と愛情の境目が性行為の有無のように見られがちなのも、少し違う感じがしています。まあ、そんなことあえてボクが言うものでもないと思うんだけど、本能とモラルの中で行ったり来たりしながら、なんだか、おかしな線引きをしているように思うな。じゃあ、何が正解か説明しろと言われても困るし、正解なんてないと思うけど。

それと、男女間が普通であるということを、証明するかのように、異端児としてセクマイがいるかのような風になっているところもあまり気持ちがよくない。誰もそんな風に見ていないかな? ボクの被害妄想?

いずれにしても、ボクがずっと伝えていきたいことは、人と違うところに劣等感を持たずに、できるところは個性として、見られるようになりましょうよ、ってとこです。少数派の当事者でうまく伝えられる人がいたら、それは発信力が強いよね。それがうまく伝えられるようになりたいです。そして、みんなが自信を持って生きていければいいのに、と思っている感じです。

ボクなんかが声高に言っていかなくてもいい社会があるといいな。まだまだボクの声はあちこちに届かないから、発言力のある人間になりたいと思う今日この頃。こういうところが、闘っている風に見られちゃうんじゃないのかな。闘いたくないのに。なんとなく今の社会だと、剣を振りかざすか、鎧を被るしか、生きていけないように感じちゃうんだよね。ボクの闘いの根源はここにある気がするんだけれど。

確かに今までのボクは自分と闘っていたよね。それは自分が弱っちかったから。今は強くなったかというとそういうつもりもなくて。しっかりとしたものを持っていたいとは思うけど、強くありたいとか、前ほど思わないんです。それよりも、自分が自然体でいられる環境を求めるから、こんな活動みたいなことをすることになったのだと思います。それが闘いのようになるのは、そのくらい武装しないと生きにくいんですよね。このくらいいきがってちょうど対等な感じがしちゃう。ボクはそんな荒々しい人間でも猛々しい人間でもないのにね。

この辺、自分にだけはうまく優しくなれたかな、と最近感じています。ボクがパイオニアになる器かどうか別にして、まあ、自分は自分の最大の理解者になれている気がするから、やっぱりこのまま進むんだな。きっと、これでいいんだ。

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2012年11月 4日 (日)

要素

金曜日、職場の飲み会の後、ほとんど最後の30分くらいだけ、少し酔った状態でコーチングスクールの授業を受けました。その帰り道に、なんか、少しひらめきまいた。

「またやりすぎちゃったなぁ。いつもこの繰り返しだなぁ。いつまでたってもからだの声に耳を傾けられないなぁ。そうしてでもやっちゃうなぁ」って思ってしまう自分を認めていこう。受け入れていこう。これだっ、応用が効くようになってきたぞ、これが、結果的に体を壊してしまう現実を引き寄せてしまうパターンから脱却するいちばんの近道な気がする。と。

スクールの授業でいうと、ダブルバインドとかパラドキシカルアプローチのような感じなんだけど。要は、「出来てないなぁ」ということを強く意識してしまうと、「できない現実」を結果的に引き寄せてしまいますよ、ということ。

先週は仕事も活動もやり過ぎて、週末にそんな感じなったので、この土日は受け止めて受け止めてそれを認めて認めて、あえて何もしない選択をして、どっぷり休みました。金曜から土曜日にかけては12時間くらい寝て、時間がもったいないとか思わずに、体の欲求に素直に従って休んでみました。書きたいことたくさん出てきちゃったけど、この欲求があることはきちんと受け止めて、イライラせずに心から休めました。そして今日も結局何も動かずに、PCでセミナーの資料作成などだけして、食料の買い物以外は何も出かけずにいました。

職場では今、調査で出ていくことが多く、それもやりすぎて、あとでどっぷり疲れてしまう、それは、アドレナリンやエンドルフィンの出すぎかもしれないけど、一生懸命にやっているときは疲れに気づけない。そこに何かの目標があるとある程度の結果が出せるまではやってしまう傾向、これを体壊さないところで何とかしたいと常々思ってしまうんですよね。やりすぎを警戒して途中で取り組みをやめると消化不良感が残ってしまうので。それで、達成感を味わいたいためにやってしまうというという罪悪感ややってしまった後の後悔から、それは「達成感を味わいたいからそういう選択したんだ」という思い込みに変えていくという作業をしているわけです。「そうしたい」「そういう選択をしてしまう」ことをただ受け止めて、それをやってしまったことをいちいち後悔はせず、そうしてしまう自分をただ受け入れる、そうして、この土日のように、自分の気持ちを受けとめたうえであえて何もしない選択をすることもしたりして、我慢をすることなくバランスを取っていけるような気がします。

「達成感を味わうことが好き」、これは自分の要素として認めて受け入れて、「消化不良感」の方になるべく執着しないように自分の気持ちをもっていく、というイメージです。

体を痛めることは良しとしないところは、そのままにしておいた方がいい気がするので、こういう咀嚼の仕方を訓練しておかないと、今の仕事を辞めて独立したとしても、同じようにまた忙しい現実を作り、体を壊していくような気がしてます。

これから、本業最後の5箇月間を丁寧に満足いく卒業にして、次のステップにするために、きちんと最後の仕事をしたかったり、その中でできる程度の次の準備をするというのは、やっぱりかなりやりすぎてしまう予感がするんですね。でも、ここをクリアしたいという気持ちは強くあります。

まったく意識だけの問題のような気がしたり、気持ちの持ちようだけの気もするけど、結局はいつも陥ってしまう失敗のパターンとして自分に染み付いてしまっているものを、改革していかないと、今度は失敗しないための人生なのに繰り返してしまいますよね、きっと。成長がないというか。まあ、今では過去を失敗とも思わなくなっているのだけれど、自分を変えていかないと新しい人生は手に入れられない気がします。

そう思うと、ボクは今、いっぱい夢や目標は持っているけど、その前にきちんと卒業することや、その準備をしている今現在を一生懸命になってるだけな気がします。今現在で精一杯。今取り組んでいること以外に新しいことには今は手が出せないな、と思えてきました。

それで悪いということはないし、今、目の前のことを丁寧にやっていくことはそれだけで素晴らしいとは思うんです。ただ、ボクには夢や目標があるのだから、そこに向かうような進み方をしているかはちゃんと冷静に見えていた方がいいように思うんですね。今はそういうことを見きわめながら、やりたいことに集中していたいです。今の仕事も辞めるまでは「やりたいこと」に入れておきたい感じです。

さいわい、辞めると決めて残りの公務員人生にモチベーションが下がったという感じはありません。「辞めちゃうんだから結果を残しても仕方ない、やりたいことはあるんだから、手を抜く」という感じにはならず、「きちんと勤め上げたい」方が強いです。ボクは「卒業」と表現しているけど、「退職」というより「卒業」の方が今の気持ちにしっくりきます。でもたぶん、この公務員に対する思いも、「未練」や「後ろ髪をひかれる感じ」でもなく捉えられてる気がします。それは自分でもとてもいいと思っていて、32年間我慢だけの公務員人生じゃなかったよな、と思えるいい要素になっています。

次のスタートにも立っていない今の時点での不安が、これからの動きにブレーキをかけてしまったりするかもわからないし、退職近づくとメランコリックになったりするかもしれません。そう思うと、現時点でとてもいい捉え方ができているようには思います。足が止まりやすい時期かも。だからこそ、いろいろ変な風にならないように、日々自分の感じ方や思い込み方にしっかり寄り添っていきたいなと思ったり。

なんか、不安定になってきているかな。少しもやもやするというか。でも、これがいちばんいい感じだと思う、今のところは。

今月に入って、「あと5箇月」というのを強く感じながら仕事しています。というか、感じてしまいます。その方が頑張れるというのもあります。

やっぱ、この感じでもう少しやってみよう。

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2012年11月 1日 (木)

宿命

このところ、ちょっといろいろやりすぎていて。

日曜日の勉強会の後、月曜日お問い合わせの体験カウンセリングセッション、火曜日リピーターさんの継続カウンセリングセッション、水曜は月曜日の方の第1回目カウンセリングセッション、今日は新規クライアントさんのコーチングセッション。これは、進化した自分が望んでいた願望の現実化か、丁寧に努力していけばついてくる結果の顕れか、もしくは、何かを試されているのか…。どれでもいい。今はひたすら経験を積んで、力にしよう。疲れてしまわないようにだけ気をつけて。

今の活動を続けていく、自己開示・自己表現をしながら、アグレッシヴ(攻撃的)ではなくアサーティヴ(自己主張)に、ただ淡々とありのままを、しかも波動は上げて。強すぎる波動ではなくいい波動で。今の最重要課題です。ここにきて増えてきたクライアントさんに丁寧に寄り添っていく、難しいけどやりがいを感じます。

そんなことを思ったりしていました。でも、どうしても何でもやりすぎてしまう自分って、体が壊れそうになってからしか気づけないことをなんとかしたくて、ちょっと試しに Facebook でみんなに訊いてみました。

なんかボクって、必死に見えたり、追い詰められて見えたり、頑張りすぎているように見えたりします? だとしても、やっちゃうけど(笑)。と。

まあ、ボク的には、とにかく疲れを感じなさすぎているだけで(それが問題なんだけど)、本当に苦しいわけではないんですよね。やりたいと思うことをただやっているだけ。楽に生きていくなんて、全然楽しくない。達成感がある方が楽しい。だからやりたいだけやっているということ。なので、苦しそうだと憐れんでもらったりする必要はないです。ただ、そんなエネルギー出しっぱなしで、体壊れるよ、って心配してくれてるんですよね、みんな。うんうん、それもよ~くわかっている、心配かけてみんなごめんなさいって感じ。それに、人の目を気にしながら頑張っているわけではないし。だから、いいんです、体壊さない程度に好きに楽しくやれていれば。人の目に苦しそうに映るというのは、大多数の人はそのエネルギーが強すぎると感じるんだろうね、ってことだと思います。ボクはボクで、体の方は一般の大多数の人と同じだから、その気持ちのまま突っ走ると耐えられないから悲鳴を上げる、ボクは体壊すほどのことはやりたくないから、バランスを取る、でもそのバランスとれている状態くらいでは、気持ちの方は満足せずに消化不良な程度で抑えることになってしまうということだと思うんです。

昨日、なんか、バランスもとりながら、我慢をするでもなく、消化不良な感じにもならずに満足して日々を送れる方法はないかと模索していたとき、お友だちの彩光さんが、すごく共感できることをブログに書いてらした。彩光さんに引用の許可は取ったから、全文載せるといいんだけど、彩光さんもブログ長いから、ボクの書きたいことと併せると大変なことになってしまうので(笑)、共感したところだけ割愛して引用します。興味ある方は、URLを載せるので、飛んでみて読んでみてくださいね。

うーん…なんか今日は、ちょっと、すっきりしない。
別に何があったってわけじゃないのだけども、なんとなく。

もうちょっとでほどけてきそうな毛玉がいくつか、チラチラしてるみたいな感じ。

知恵の輪とか。
絡まっちゃった毛糸とか。

そんな感じのものが、あとちょっとでほどけ口が見つかりそうで…でも、違うかも…みたいな感じ。

でも。
もし、その絡まってる何かがほどけたとして。

それが、一体??

そういう、感じ。

ちょっと、変わった感じ方とか捉え方をするところが、多々あるらしく。
誰でもこういうふうに感じてるもんだ…と思い込んでたけど、実はどうやら、自分はとっても少数派らしい…ということに気づく。
そんな現象は、昔から、何度も経験してきた。

でも、まだまだ、それがやってくる。

人間なんて、究極的には全員、感覚感性は違うものだ。
だから、多数とか少数とかは、最終的には関係ない。

なんだけど。
やはり、ざっくり分類した時に、大多数の人とは違うカテゴリに入っちゃうことが、たくさん積み重なると…。

なかなか、やりにくいんだなあ、これが…。

だって私は宇宙人だから~地球の常識はわかんないの~

とかいった類の妄想に逃げ込めると、楽だろうな~って、思うこともある。

けれど、そういう類の妄想すらも、もっと外側から俯瞰してしまう傾向があるので、結局、そういうところへ逃げ込む策も、私は、無理。

この感覚が、もっととってもネガティブに傾いている時にどーんと前に出てくると、そりゃもう、厭世観フィルターが一番強くかかってきてしまうので、あらゆることが、アホくさくなる。

って、結局ほとんど掲載したんだけど(笑)。

↓彩光さんのブログ「手が知っている +天上絵師 彩光(Ayako) +神様や天使たちと共に描くパワーアート」の10月31日のブログ記事「つぶやき」

http://ameblo.jp/kawazo1151/entry-11393281773.html

ここで、どう共感したかって、そりゃボクのことだから、「多数と少数」のところなわけです。ここの、

なかなか、やりにくいんだなあ、これが…。

の部分ですよ。まったく同感、強く共感したんです。少数だと「やりにくい」んですよねぇ。彩光さん、よく言ってくれたって思いました。この辺がすぐわかってもらえたらさくさく活動が進むのに、みたいな。これをいちいちわかってもらおうとしてるから面倒くさくて、いちいち疲れちゃう。だから前々回の「存在の証明」のような文章を書くことになってしまうってわけです。

このところ、それを感じているから、なるべく、わかってもらおうとはせずに、ボクの中に「認めてもらいたい」感情が強くあるんだなぁ、そういう風に意思表示をしちゃうんだなぁ、って淡々と自分自身が認めようとしているところです。認められようとして苦しくなってしまうように人に映るのは、たぶんこのせいです。

でもボクは今は認められたくてしょうがない感じからは少し脱却したように思います。認められたい感じをちゃんとアサーティヴに自己開示できているから。

認められたい感じを自分で認められる、それだけで、ごり押しでなく、少数の気持ちをただ淡々と開示できないもんかなぁ、と思っています。

このやりにくい感じが強いエネルギーとしてごり押しのようにみんなに伝わってしまう。そううしてやりにくいからいろいろ余計にやってしまわないといけないことが出てきて、疲れてしまう。そして体を壊してしまう。マイノリティの宿命? そりゃ楽になんか生きられませんよ、まったく。

まあ、こういう風なんで、心配をしないでただ「豆腐さんはそうなんだなぁ」と思っておいてくれますか、みなさん。ブログがいちいち長いのも、それだけ自己開示には必要だってことで(笑)。

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