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2012年12月 1日 (土)

生命

10月11日に母が集中治療室に運ばれたとき、もう最期かもしれないという状態になったとここで書きました。今は施設に戻り落ち着いています。そのとき、こんな状態になってまで取り乱さず、いたって冷静だった自分のことを、冷たく感じたということに触れました。どんなときでも冷静でいられる状態はうつになったときから自分で望んで取り組んで来たことです。でも、それはあまり心地のよい楽なものではありませんでした。このこともそのとき触れましたね。

3日前、同い年の、31年前一緒に新規採用された同僚が癌で亡くなりました。18歳の4月1日彼とボクは区役所の同じ課に配属になり、最初はいつも一緒にいました。最近はほとんど交流していませんでしたが、それなりにかなりショックでした。でも、やっぱりボクはそのことをとても冷静に受け止めました。そのとき思ったのは、「ゆっくり生きてる暇はない。今を大事に生きなきゃ」ということでした。ボクは100歳まで生きると決めたけれど、生きているうちにやるべきことがまだたくさんあって、まだ死ねないな、と感じました。

やるべきこと、使命のように感じていることは、今世でやらないといけないことか、来世でやることなのかはわからない、簡単なことではないけれど。

同じ年の人の死はやはりどうしても自分に置き換え、強烈に考えさせることになります。彼の人生は幸せに終われたのだろうか。それは彼しかわかりません。母はどうなんだろう。今、もう後悔はないと思っているのだろうか。同僚の彼は同い年だから50歳でこの世を去ったことになります。今、自分が人生を終えるということはあまりピンときません。

先日ブログで31年前に逝った父の夢の話を書きました。父は59歳でなくなりました。その父が今やたら夢に登場します。先日、まんちゃんのセッションを受けてみて、父との関係性を見直す時期に来ているのかもしれませんね、と言われました。昨年、母との関係性を見直すことにきちんと取り組み、カミングアウトをして、何かひとつの到達点のようなものを見た気がしました。今ではわだかまりが取れ絆のようなものさえ出来ました。父との関係性を見つめなおすことはまったく怖くないです。でも、もしかしたら、無意識に眠っているパンドラの箱を開けてしまうようなことが起こるかもしれません。強烈な何かがありそうな気もします。それを深くほってみたい気はしています。まったくわからないけど、何にもないか、見ないことにしてしまった強烈な重い蓋を見つけるかもしれません。

今、取り組むべきか、公務員を卒業してからにするか、どちらでも構わないけれど、すごく見たい気がしています。見ないほうがいいものもあります。もしかしたら今のボクではまだ受け止めきれないものかもしれません。でも、夢に出てくる父…、これは非常に気にかかる部分です。無意識の無意識の無意識の奥の方にしまいこんでる見ないことにしないと生きていけないほどの何かに蓋をしてしまっているとしたら、と思います。そうしてそれが、今なら開けられる蓋か、見つめて平気なものかはまったくわかりません。その蓋がありそうな気もするし、父に対しては何もないような気もします。今の自分を信じて取り組むか、もう少し時期を待つのか、神のみぞ知る、って感じです。

たとえば、ボクの中に「どうしてボクの苦しさに気づいてくれなかったの?」「どうしてその辺に気づいてくれなかったの?」「もし、うすうす普通の子供とどこか違うと気づいていたとしたらどうして寄り添ってくれなかったの?」「なぜ普通の子供ということにして育てたの?」っていうのが、強い親に対する非難として残っていたら、そういうことを知ってボクはどうなってしまうのか、何もできなくなって動けなくなってまたうつへと向かっていったりするだろうか、ぜんぜん平気で母のように関係性を取り戻すことができるのか、まったく見当がつきません。希望を託した子ども、やっとできた長男がこんなボクでごめんね、っていう申し訳なさも子どものころはあった気がします。やり直したくても、もう父は他界して、この世にはいません。ボクの中だけで絆を取り戻すことができるんでしょうか。きっと父はそのときこういう気持ちだったんだろうな、という受け止め方は簡単にできそうです。それをお墓の前で報告したらそれで終わりですか? きっと、そんなもんではないですよね。もし認められたかったような気づいてもらいたかったような気持ちが幼いボクにあったとしたら、そのときの父の年齢には今ボクはすでに差しかかっています。今なら父の立場も気持ちもわかるかもしれません。

きちんとうまくおとしまえをつけられなかった人との関係性は修復できなくなってしまってから、人はどうして行くべきなんですかね。もう修復できないのだから、そのままにしておけばいいんでしょうか。少し違う感じがします。かといってどうしていいのかはよくわからないですね。死ぬまでにしたいことは、使命の遂行だったり、自分の存在の証明だったり、最期幸せな人生だったということにできたりすることだけでなく、人との関係性というのもあったりするのかな、と思いました。

命というものは、意思や想いとは関係なく生存機能の停止によって終焉を迎えます。後悔の残る人生のほうが圧倒的に多いかもしれません。自殺以外、自分の最期の日を決めることは意思ではできません。そうしたうえで、その人の人生の意味するもの、その人の生き方にどこに尊敬の念を抱くことができ、その人の人生をどこまで讃えることができるか、それを最大限感じて敬意を表しながら、悼みたいと思います。その人がボクに与えてくれたものに感謝をしながら、有形無形問わず、大切にしていきたいと思います。

命、難しいです。体と心が同時にきちんと役目を終えるような日が来たら、いちばん満足な終焉になるのでしょうか。考えてみてもいい年齢になった気はしています。

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